福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第1回口頭弁論期日のご報告

去る7月31日(火)午前10時30分から、東京地裁103号法廷において、福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第1回口頭弁論期日が開催されました。

第2陣の裁判には、避難者だけでなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り栃木県北地域)も原告に加わり、原発事故被害の総体を追及するものとなっています。

当日は、原告側からは、福島県田村市に住む原告の方1名(原告番号B-1)と、弁護団3名による意見陳述が行われました。

以下では、この田村市に住む原告の方の意見陳述をご紹介します。

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(1)自己紹介

私は,この裁判の原告で、福島県田村市常葉町早稲川柳渡戸に住んでいます。当時,私の家族は,妻,両親,弟,息子夫婦,孫たちで暮らしていました。

今回の原発事故で,家族が一時的にバラバラになり,また,放射能汚染により生活の面で様々な影響を受けていますし,地域のつながりもメチャメチャにされてしまいました。この経過について,以下,述べさせていただきたいと思います。

(2)早稲川地区について

私たちが住んでいる田村市常葉町早稲川地区というのは,郡山の駅から車で1時間20分から30分くらいのところにあります。周りは小高い山に囲まれていて,主に田んぼで米を作ったり,畑でトマトなどの野菜を作ったり,肉牛の飼育をしたりして生計を立てている人が多い地域です。私は,両親を継いで,米やトマトを作っていました。

そして,春には,山に入って山菜を採り,秋にはキノコ狩りをして,自然の恵みを楽しんでいました。決して,豊かとは言えませんが,自然の恵みに囲まれた生活でした。

また,周囲の人たちとの関係もとても良く,ことある度にみんなで集まって,お茶や食事をしたり,お祭りなどの行事を行っていました。

ごく普通の平和な暮らしをしていたところで,今回の原発事故が起きてしまったのです。

(3)原発事故時の状況

平成23年3月11日,東日本大震災が起きました。とても大きな揺れで驚きましたし,テレビを見ると大きな津波が起きていたので,一体どうなるだろうと思っていました。そうしたところ,今度は,原発で事故が起きて,一部の地域で避難指示が出されていることをテレビで知りました。私たちは,まさか原発で事故が起きるなどとは思いもしませんでした。

そうこうしているうちに,私たちの住んでいる地域も原発から30キロぐらいということで,避難しなければならないという情報が入ってきました。実際に,自宅の近くに検問が敷かれました。また,警察や自衛隊の人が巡回して,「いつ,避難しますか?」と尋ねてきたりしました。

そのため,私たちとしても,避難をしなければならないと思い,まず,両親を埼玉県上尾市の私の弟の家につれて半年ほど避難させました。妻は,田村市船引町で仕事をしていましたので,しばらくその場にいてもらいました。息子夫婦と孫は,一旦郡山に避難して,それから埼玉の娘の家に学校が始まる時期まで避難をしていました。私は,当時,民生委員をしていたので,集落の人たちを見届けなければならないと思い,両親を上尾の弟の家に連れて行って数日泊まってから,自宅に戻りました。

自宅に戻って,数日経つと検問がなくなって,警官や自衛官もいなくなっていたのです。しかし,放射能汚染が広がっているということは,報道などでも知っていたので,一体どうなっているんだろう。大丈夫だろうかと思っていました。

(4)放射能汚染の影響

原発事故により,私たちは,放射能を気にして生活をしなければならなくなりました。食べ物については,当初,地元以外の物を買って食べたり,水についても飲み水については,ペットボトルのものを買うなどしていました。今でも,孫たちが食べたり飲んだりするものについては,息子たちが気を使っています。孫たちも外ではなく家の中で遊ぶことが多くなってしまいました。

農業に関しても,いつも放射能検査をして,基準値を下回るものを出荷しています。そして,もともとは,山にある枯れ葉を使って堆肥を作り,それを肥料として使っていましたが,使うことが出来なくなりました。現在でも,堆肥を使うことは出来ず,わざわざ化学肥料を買って使っています。また,山での狩猟が行われなくなったため,猪が畑や田んぼに現れて,荒らしていくこともしばしばです。

毎年楽しみにしていた山菜採りやキノコ狩りも出来なくなりました。

これ以外にも様々なことで放射能を気にして生活していかなければなりません。

(5)賠償の格差による地域の分断

さらに,賠償の格差が地域のつながりをメチャクチャにしました。

平成23年4月中ごろ,私たちの早稲川行政区は,避難区域に含まれず,隣の堀田行政区は,避難区域に含まれるということを知りました。それは,堀田行政区は,は,1件が30キロ圏内に入っていることから,全体として避難区域となったのです。それ以外の家は,30キロ圏内には入っていません。むしろ,私たちの集落より原発から離れているところもあります。結局,道1つを境に避難区域とそうでない区域とに分かれることになってしまいました。

しかし,私たちの早稲川と隣の堀田とでは,ほとんど放射線量が変わりません。むしろ,こちらの方が高い場所もあります。実際に,早稲川公民館で測ったところ堀田よりも高い数値が出たことから,田村市は慌てて,公民館の敷地にアスファルトを敷いたということもありました。

こうした避難区域とそうでないところの違いにより,両地域では,原発事故での賠償金などで大きな差が出てしまいました。実際に,隣の区域の人たちは,数百万円の賠償金が支払われていますが,私たちは,ほとんど賠償金が支払われていません。

また,賠償問題だけでなく,義援金を受けられる金額も大きく違いますし,税金・医療費の免除などについても減免などでも大きな差が生じています。今も田村市では,医療費などで差が生じています。

その結果,避難区域となっている隣の行政区にある集落の人たちとの間にわだかまりが生じてしまいました。中には,親戚などもいたりするにもかかわらずです。実際に,隣の集落の人と会ったり,飲んだりした際に,会話をしても,賠償の問題にはお互い触れず,微妙な雰囲気になります。子ども達の間でも学校でトラブルがあったときいています。今までは,私の家の裏にある神社で隣の行政区の集落の人たちと一緒にお祭りなどをしていましたが,原発事故後最近まで,一緒にお祭りをすることはありませんでした。冠婚葬祭での付き合いすら遠慮するようになった人がいるとも聞きます。

また,私たち早稲川行政区内でも,「なぜ,行政区として,避難区域にするよう求めなかったのか。」という区長らに対する批判の声があがったりして,お互いの人間関係がギクシャクしています。

原発事故は,放射能汚染だけでなく,これまで仲良く暮らしていた地域のつながり,団結を声が壊してしまいました。

(6)提訴に至る経緯

私たちは,平成23年4月頃から柳渡戸・根子田の集落を中心に有志で,市や国,国会議員,東京電力などに要望してきました。

しかし,どこに要請に行っても対応してくれませんでした。

そこで,東京で避難者を支援している「とすねっと」を通じて,弁護士たちを紹介してもらい,早稲川の他の集落にも呼びかけて,裁判を起こすことにしました。

(7)私たちの願い

私たちの願いは,もとの地域を戻してほしいということです。それは,放射能汚染がない状態にしてほしいと言うことだけでなく,壊れてしまった地域のつながりを元に戻してほしいということです。そして,こうした被害に対して,きちんと償ってほしいと思います。

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<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第2回期日は、11月24日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

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