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福島原発被害東京訴訟・第5回期日報告

去る2014年3月26日午前10時から,東京地方裁判所103号法廷にて,第5回口頭弁論期日が開かれました。
冒頭に,原告番号12-2さんが意見陳述を行いました(意見陳述は,次頁以降に掲載しています)。母として,妻として,娘としての,家族への想いを語り,平穏な生活を取り戻したいという原告の方の訴えは,満員の傍聴席にいらっしゃった他の避難者の方にも共通するものだったと思います。
その後,弁護団中川素充弁護士による意見陳述も行われました。
原告からは,本件事故当時,国や東京電力は,それまでの津波対策では不充分であることを知りながら,抜本的な対策をとろうとしていなかったことを明らかにする書面(準備書面(10)),低線量被ばくの問題を指摘し,避難区域内外を問わず避難をすることに合理性があることについて総論を述べた書面(準備書面(11)),さらに,今日においても除染が十分に進められていない事実を指摘する書面(準備書面(12))を提出しました。

以下,原告番号12-2さんの意見陳述の一部をご紹介します。

「夫はやりがいのある仕事を頑張っていて,母は日中可愛い孫の面倒を見て,夜は友人と趣味のカラオケや温泉に出かける,そんな日課でした。裕福な暮らしではないです。でも,そんな家族で助け合った暮らしが,私たちの幸せでした。
休みの日は,家族で買い物に行ったり,おなじみになったお気に入りのお店の美味しいランチを食べに行ったり,神社のお祭りや七夕祭り,花火大会が大好きで毎年一緒に出かけていました。平凡な毎日ですが,とても幸せな毎日を送っていました。私は,故郷でのそんな暮らしが大好きでした。
自宅は一軒家でした。よく夫の仕事仲間やお友達が遊びに来てくれました。親戚兄弟もお盆やお正月休みには,毎年泊まりがけで来てくれました。でも,私たちが東京に避難してきて,遠く離れてしまった今では,ほとんど会うこともなくなってしまいました。とても寂しい事です。」

「東京へ来てからは,慣れない生活が続き,家族がバラバラになってしまいました。母は,持病があります。いつもの慣れた病院へ通院したい,東京にはお友達が居ない,とても寂しかったと思います。そして,原発事故の次の年,一人でいわきへ戻りました。
母にとっては,可愛い孫と娘夫婦に囲まれ,自分の趣味に使う予定だったこれからの人生でしたが,今では一人でテレビを見る時間が増えたそうです。毎月,孫の顔を見るために,高速バスに乗って会いに来てくれますが,その途中,倒れた事もありました。そんな母が心配でなりません。できることなら,一緒に暮らしたいと思っています。
夫は,東京に避難したことで,仕事のお仲間から非難されてしまいました。つらかったと思います。夫は,娘や私たちのためにとても苦しい決断をしたのです。
私達は,生活の為に慣れない土地でも働かなくてはなりません。でも,東京での仕事でも,避難者だっていうことだけで,傷を受けました。そんな中で,もともとは丈夫なはずの夫が,仕事中に救急車で運ばれ入院した事もありました。原因はストレスと過労と言われました。私自身も体調を崩す事が多くなったように思います。どこに行っても知った顔に囲まれ,安心したいわきでの生活から,どこへ行っても,見知らぬ人ばかりの東京の生活。人との関わりがわからなくなり,人と接する事が怖くて,人と会うこと,人と話すことが嫌になってしまいました。
私達は,東京へ来たくて来た訳ではありません。原発事故がなかったら,今でもいわきで家族4人楽しく暮らせていたと思います。故郷で,みんなで楽しく穏やかに暮らす,そんな生活を取り戻したいです。事故が起きる前の暮らしを返してほしいです。」

原告さんからのメッセージ

3月11日の提訴に際して寄せられた原告2(-1)番さんのメッセージをご紹介します。

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私は,福島県いわき市からの避難者です。地元に夫を残し,幼い子ども2人を連れて東京都内で避難生活を送っています。そろそろこの避難生活も2年になります。

原発事故の後,こちらに来てからは,親戚の家や東京都内の避難所などを転々としてきました。当時避難所だった赤坂プリンスホテルに入った当初,東京都の公営住宅の応募は区域内からの避難者に限られており,私たち区域外避難者は応募することができませんでした。赤坂プリンスホテルは平成23年の6月末で閉鎖されると聞いていましたし,その後私たちは住むところもなくどうなってしまうのかととても不安でした。結局,私たち区域外避難者も遅れて東京都の公営住宅に入居することができるようになりましたが,あのときの不安な気持ちは今も忘れることができません。

これまでの避難生活の中で,一番辛いことは,夫も含めた家族4人で一緒に暮らすことができないことです。夫は仕事があるため,地元のいわきに残り,私たちとは離ればなれに生活しています。子どもが学芸会や運動会などで活躍する姿を夫に見せてあげることもできません。子どもたちにも,普段父親が近くにいないということで寂しい思いをさせてしまっています。夫は,平均すると1ヶ月に1回くらい,週末に自動車を運転してこちらまで会いに来てくれます。地元で1週間仕事をして疲れており,さらに自動車を運転してこちらまで来て,今度はとても元気いっぱいの子どもたちと遊びます。日曜日の夜にこちらで晩ご飯を食べてそれから運転していわきまで帰って行きます。大変疲れると思います。このような生活がいつまで続くのかと思うと,辛い気持ちでいっぱいになります。

いわき市は避難指示が出ていない安全なところなのに,何で避難生活をしているのかなどと言われることがあります。しかし,本当に安全だと言いきれるのでしょうか。政府による避難指示区域は,30キロというところで勝手な線引きをされてしまっていますが,放射能汚染が30キロでストップするわけではないのです。福島原発事故は未だに収束していないし,いわき市内でもいわゆるホットスポットと言われる放射線量の高い場所がたくさんあります。

そのような場所に,幼い子どもを帰すわけにはいきません。将来子どもたちの健康に影響が出たり,福島県民ということで,たとえば結婚などで差別されたりしないかと,とても心配です。

私たち区域外避難者は,区域内の避難者と比べて,いろいろな面で置き去りにされています。原発事故の被害者だとすら思ってもらえないこともあります。私が今回,この裁判の原告になることを決意したのは,自分が動くことによって,私たちのような区域外避難者の被害を世間の人々に理解してほしい,分かってもらいたいと思ったからです。また,事故直後から事故に関する正確な情報を公開せず,隠したりごまかしたりする国や東電の対応が許せないと思ったからです。危険なことは危険だとはっきり情報を公開してくれなければ,また同じような原発事故が起こります。これから先も私たちのような犠牲者が出るのはもうたくさんです。

一人一人ができることは小さなことかも知れません。しかし,声を上げなければ何も変わりません。幼い子どもたちのためにも,がんばって少しずつでも前に進んでいきたいと思います。皆さんどうかご支援をよろしくお願いします。