カテゴリー別アーカイブ: 裁判期日

福島原発被害東京訴訟・第1陣訴訟の控訴審の今後の裁判期日について

現在、福島原発被害東京訴訟の1陣訴訟は、東京高等裁判所に係属しており、控訴審の審理が行われています。

 

しかしながら、新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から、昨年より公開の法廷において行う弁論の期日が延期となっております。

 

現時点で決まっている、今後の裁判期日についてお伝えします。

 

裁判所の要請もあり、今のところ一般の方の法廷の傍聴はまだ難しい状況ですので、なにとぞご理解をお願いいたします。

 

2021年3月30日(火)午後3時30分~ 弁論(ただし、傍聴は制限)

2021年4月27日(火)午後2時~ 非公開手続

2021年6月8日(火)午後3時30分~ 公開か非公開かはまだ未定

2021年9月16日(木)午後2時~ 公開か非公開かはまだ未定

2021年12月9日(木)午後2時~ 公開か非公開かはまだ未定

 

今後の手続の動きや、すでに行われた手続等につきましては、適宜このブログでもご報告いたします。

 

今後とも、ご支援をどうぞよろしくお願いいたします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1-28-3 TSG御苑ビル3階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138/FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan

 

 

福島原発被害東京訴訟第2陣訴訟・第5回期日のご案内

写真の説明はありません。

福島原発被害東京訴訟第2陣(3・4次訴訟)第5回期日(9月4日)の傍聴をお願いします。

★日時:2019年9月4日(水)10時30分開廷
★場所:東京地方裁判所103号法廷
(千代田区霞が関1-1-4 地下鉄霞が関駅A1出口すぐ)

※法廷では、原告ご本人1名(被ばくに関する論文不正問題に取り組んでいる伊達市の被害住民の方です。)と弁護団による意見陳述を予定しています(30分ほど)。

※傍聴券は不要です。裁判所に入る時に手荷物検査がありますので、開廷時刻の15分ほど前までに裁判所に来て手荷物検査を受けてください。

※期日に先駆けて、裁判所正門前では、9時30分ころから、原告らのスピーチが行われますので、是非、そちらにもご参加ください。

★原告団から
私たち東京訴訟は、皆さまの応援に支えられ、2018年3月の第1陣の判決では、晴れて国と東京電力を断罪する勝訴判決を得ることができました。しかし、その判決の中身は、私たちが納得できるものとはまだまだ遠く、特に損害については、私たちの想いが裁判所に届いていないことを思い知る内容でもありました。今後、ますます想いを強め、司法に、国民に広く訴えていきたいと思っております。
そんな中、東京地裁では、昨年7月から第2陣の審理が始まりました。第2陣の原告には、東京在住の避難者だけでなく、福島県内(田村市早稲川地区、中通り地域)の被害住民や、放射能汚染が深刻であるにもかかわらず全く賠償がなされていない栃木県北部(那須地域)の被害住民が共に加わっています。もうすぐ、あの原発事故から8年半が経ちます。私たち原告は、あの日どこにいたのか、どんな仕事をしていたのか、避難したのか、故郷にとどまったのか、それぞれ違いますが、国と東電に原発事故の責任をとらせる、その目標のためにこの裁判を共にたたかっています。
9月4日の期日には、多くの原告が参加します。どうか、傍聴で応援してください。

★報告集会:
時間:裁判終了後(11時ころ)に移動します。
会場:弁護士会館5階 508ABC会議室(裁判所東側日比谷公園寄りの建物)

★問い合わせ:福島原発被害首都圏弁護団(03-5362-0138 オアシス法律事務所内)

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第3回口頭弁論期日のご報告

去る2月6日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれました。

この日は、福島原発事故後に福島県いわき市から東京に避難し、現在まで約8年間避難生活をしている原告番号A7さんの意見陳述が行われました。

以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1 原発事故が起きるまで

私は、昭和21年に福島県石城郡小名浜町に生まれました。石城郡というのは、今のいわき市です。その後もいわき市で育ち、夫と結婚しました。長男、長女の2人の子どもに恵まれ、20年間くらい、東京で暮らしたこともありましたが、昭和63年ころにはいわき市に戻り、2011年3月11日の原発事故が起きたときは、夫、長女と長女の子ども、長男の5人で暮らしていました。

私は原発事故の1年半前に、脊髄梗塞にかかり、両足麻痺の後遺症で車いす生活となりました。3年半にわたる両親の介護と看病の末の疲労が原因でした。この病気で排尿機能障害も併発し、管を通して排尿をする生活でした。

2011年3月初め、そんな車いす生活の私のために、私の家族は、車いすでも生活しやすいようにと引っ越しを決め、転居先の大家さんにお願いして新居をバリヤフリーに改装させていただいたところでした。大家さんから新居の鍵も受取り、これからはやっと車いすでも住みやすい家に住める、願ったり叶ったりで、家族みんなで、3月末の引っ越しを心待ちにしていました。

 

2 原発事故が起きた

(1)町が静まり返った

でも、そんな矢先に東日本大震災が起こり、福島第1原発が水素爆発を起こしました。

「窓を開けないでください」「換気扇にはガムテープで目張りをしてください」と、あちこちで言われました。

3月14日の午前中には、2度目の水素爆発が起こり、その様子がテレビに映し出されていました。

3月15日、いわき市役所の合同庁舎の空間放射線量は、1時間あたり23.72マイクロシーベルトと報道されていました。

町中はシーンと静まり返り、いわき中の空気が黄色く淀んだように見えました。時間が止まったかのように、辺り一面、何ともいえない重苦しい気配が漂っていました。

それでも夫は、給水車を求めて出かけて行きました。何時間もかかって戻ってきましたが、抱えていたのは、割り当て分の飲み水程度の量の水でした。いわき中がそんな様子でした。広報車が廻ってきて、「外に出ないでください」「外出している人は、家に入る前に着ているものを脱いで、シャワーを浴びてください」とさかんに広報していましたが、シャワーを浴びられるほど水はありませんでした。

 

(2)病院へ

私は、排尿機能障害をもっていますので、毎日、通院して排尿処理とリハビリをしなければなりませんでした。原発事故が起きたときも処理のために病院に行かねばなりません。3月14日、いつものように病院に行きましたが、玄関は閉鎖され、救急口に回されましたが、そこには防護服と防護マスクをした警備員が立ちはだかっていました。結局自宅で待機をするように言われて自宅に戻り、3時間くらい待ちました。再度病院に呼ばれていくと、病院はいつ再開できるかわからないとのことでした。いわきからいつでも避難できるようにと、排尿袋をつけることになりました。

 

3 避難生活を始める

病院で避難を促されたので、私達夫婦と長女親子の4人は、3月14日、いわきから避難することにしました。ただ、長男は仕事があるために避難することができませんでした。

まずは夫の友人を頼って横須賀へ行き、アパートを探しましたがなかなか見つけることができませんでした。結局、3日間、ウィークリーマンションで生活しました。

3月18日には、避難所の東京武道館に行きましたが、すぐには中に入れてもらえませんでした。入口の横に作られたビニールでできた部屋で、防護服と防護マスクの検査員の方から、頭の先から足の先、口の中まで被ばく検査を受けました。

車いすの私にとって、避難所の床で寝起きする生活は大変苦労しました。ですから、洗面所とトイレでの排尿袋の処理のとき以外は、いつも身体を横たえているほかありませんでした。神経内科と泌尿器科の診療に行くにも、救護班の方の手をお借りしなければなりませんでしたので、申し訳ない気持ちで診療を受けました。

入浴も10日に1回くらいしかできませんでした。

ただ、そんな不自由な避難生活ではありましたが、武道館で知り合った方々とは、今でも苦しみを分かち合える仲間となり、家族のように交流を続けています。

 

4 いわきに戻れず家族離ればなれに

いわきに残った長男は、原発事故当時、物流ドライバーをしていましたが、原発事故で物流がストップしたために失業してしまいました。

原発事故前に借りて住んでいた家は、借り上げ住宅に提供されることになったことから賃貸借契約の更新をしていただけず、戻れませんでした。入居予定だった新居も、大家さんの親戚が避難先として使いたいとのことで、断られてしまいました。そのため長男は、住まいを失い、原発事故から4か月くらいの間、車の中で寝泊まりをしていました。

多方で、私と夫と長女親子は、2011年4月23日、ようやく新宿の都営住宅に入れることになりました。ところが、その途端に、長女はひきこもりがちになってしまいました。

長女は避難したことで失業し、2年間、東京での就職先を見つけることができませんでした。また、4人での避難生活はストレスが重なりました。長女との喧嘩も絶えず、私と夫は体重が10キロ減りました。2012年8月まで4人での同居生活を頑張りましたが、ついに限界を迎え、私と夫は長女親子と別居しました。そのため、片時も離れて暮らしたことのない、孫とも別居することになりました。夫にとっては、これが最大のショックだったようです。

いわきに残してきた家財道具も、避難先のアパートには入り切れないので、全て処分しました。思い出に残るものも失いました。

 

5 夫の死

原発事故の年の8月、夫は、今まで味わったことのない倦怠感、脱力感をしきりに訴えるようになりました。私は当初、今思えば気軽にも、単に引っ越しや片付けの疲れが出たのだろうとしか考えていませんでした。

でも、その後も夫は体調の不良を訴えて、病院を3か所まわり、検査を受けました。そして2011年12月、悪性リンパ腫と診断されました。私達の家族はそれまで全員、癌とは無縁でしたので、夫の悪性リンパ腫はとても信じられませんでした。

がんとの闘病生活の中、私と夫は、長女親子と別居することになりましたが、転居先のアパートでは「放射能がしみ込んだごみは集積所に捨てるな」などと言われたり、私たちと同じようにして避難してきた避難者から誹謗中傷を受けたりもしました。転居先でのこうしたできごとが、夫にかなりの精神的な負担となってしまいました。

夫は、最後まで、「絶対病気に勝つ」と気丈に闘い、根気強く、病気と向き合ってきましたが、転居先での精神的な疲労もあり、みるみる内に骨と皮ばかりにやせ細り、2013年11月30日、亡くなりました。避難先で最期を迎えたことは、どんなにか無念だったろうと思います。

 

6 父の死

いわきに一人残してきた私の父も、4年前の2014年8月11日に一人で寂しく亡くなりました。父は、いつも「家族に会いたい、会いたい」「私に最後まで介護してほしかった」と言っていたそうです。その当時、私には、父の葬儀に参列してあげるお金もありませんでした。こんなことになって無念ですしとても悔やしいです。

 

7 いまの私の生活と思い

あちこちで「自主避難」と言われ、何かと差別を受けますが、原発から20キロ圏の人も50キロ圏の人も、なくしたものは皆同じです。

原発事故からもうじき8年となり、今は、帰る故郷だけでなく、一家の柱の夫を亡くしました。家族もバラバラになりました。

いわゆる「区域外避難」だから、生活保障もありません。避難生活中に貯金も使い果たしました。夫が悪性リンパ腫だとわかり、年金はすべて、医療費に消えました。夫の葬儀にもお金がいりました。夫の入院費用は、分割払いにしていただきましたが、返済し終えるまでまだ3年かかります。私は今、夫のいなくなった避難先アパートで独り暮らしをしています。夫の遺族年金で生活していますが、公共料金と食費を支払ったら、お金はなくなってしまいます。

それなのに、2014年、父を亡くしたばかりのころ、東電の方から電話があり、これまで支払猶予だった電気料金をさかのぼって全額支払ってもらうと言われました。東電の料金課の方からは、「電気料金を支払えないときは、電気を止めるか、区役所に相談に行ってください」と言われました。何と心無い、無責任な一言だろうと、憤りを感じました。電気を止められてしまったら、一人暮らしのたった一つの楽しみであるテレビも見られず、私の足である電動車いすの充電もできず、どこにも行けない生活となってしまいます。なぜ私が電気料金すらも滞っていたのかわかりますか?

東京に避難をしてきた数年は、日々の暮らしに必死でした。もうじき避難をして8年です。今は、夜中にふと目を覚ますことが多くなりました。夫も亡くなり、避難先で一人暮らしとなり、年を重ねていく不安から、今は、故郷に帰りたいという思いが日に日に強まります。でも、いわきには、住むところだけでなく、帰れる居場所も失いました。私たち避難者はこれからどうすればよいのでしょうか。

私には、夢も希望もない生活が待ち受けています。今思うことは、こうなってしまったのは、あの福島第一原子力発電所がもたらした無責任な事故の結果にほかならないということです。願いが叶うのなら、家族5人、仲良く、にぎやかだった家庭を元に戻していただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第4回期日は、5月29日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第2回口頭弁論期日のご報告

去る11月14日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第2回口頭弁論期日が開かれました。

この日は、原告番号A18-5さんの意見陳述が行われました。彼は、平成23年3月11日には18歳でしたが、あれから7年経ち、今は25歳となりました。

彼の口から語られたのは、原発事故によって人生の進路を翻弄された若者の被害でした。

以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1 2011年3月11日に起こった福島第一原子力発電所事故は、7年という月日が経った今もなお、私たち多くの被害者の人生に影響を与え続けています。

今日は、原発事故が変えてしまった私の人生と、私たち家族の現状について、お話をさせてください。

2 私は7年前までは福島県●●市に住んでいました。しかし、原発事故による放射線被ばくのおそれがあったことから、福島を離れ、現在は家族と共に東京で避難生活をしています。

地震直後の情景は今でも鮮明に覚えています。ライフラインは機能せず、お店や道路はめちゃくちゃに壊れ、地元の小学校に避難し夜をしのいだこともありました。

そんな地震の混乱が収まらない中で、衝撃のニュースが流れました。

「福島第一原子力発電所から放射性物質が漏れている」

18歳未満の子ども達を対象に、真っ赤な袋で包装されたヨウ素剤が保健所から配られました。「こんなものを配るなんて、なんだかおかしい。」--そんな風に感じたことを覚えています。

福島第一原子力発電所の事故は連日ニュースで取り上げられ、私も原発の危険性を強く感じました。

原発事故のため、私の両親は当時18歳で高校を卒業したばかりの私や中学を卒業し15歳だった私の妹の健康を心配し、家族で原発から少しでも遠いところへと避難することに決めました。

新潟や関西なども避難先として考えていた中で、両親の友人に被災者の受け入れに関する情報をいただき、東京に避難することとなりました。

東京へ来てからは、区民館の体育館や避難者の受け入れを行ってくださったホテルなどの避難所を転々とした後、原発事故避難者の「みなし仮設住宅」として用意された都営住宅への避難が決まりました。

家具も何もない新しい家で、少しずつ生活を慣らせていく日々でした。

3 当時の私は大学受験生でもありました。

アルバイトをしながら文房具代や参考書代、模試代、予備校の授業費などを貯め、段ボール箱を勉強机の代わりにして受験勉強を行い、ようやくして大学進学の機会を得ました。

その際、大学が実施してくださった被災者免除制度を活用し、私はやっと進学することができました。

念願叶って大学生になった後、私は奨学金を借りながら塾講師、家庭教師、飲食店など3つほどアルバイトを掛け持ちして大学の学費や生活費にあてていました。

両親は原発事故を機に失職をし収入が安定せず、家計を支えるためにも、私は働かなければなりませんでした。

4 ところが、2016年の2月中旬頃、当時私が通っていた大学からある通知が届きました。それは、原発事故など東日本大震災で被災した学生に対し、学費を減免する特別措置を終了する知らせでした。

通知にはこう書いてありました。

「本学では、東日本大震災が発生した平成23年から、被災学生に対して授業料等減免の特別措置を実施してまいりましたが、発災(はっさい)から5年が経過し、国の施策(しさく)や本学の諸事情に鑑(かんが)みまして、今年度をもって特別措置を終了することとなりましたので、お知らせいたします。」「皆様の残りの学生生活が有意義で充実したものとなるよう、心よりお祈り申し上げます。」

私はこの通知を受け、学費の支払いに工面がつかず、2016年3月に大学の中退を余儀なくされました。

5 この大学からの通知から1年後、2017年の3月、追い打ちをかける出来事が起きました。それは 私たち家族が現在住んでいる「みなし仮設住宅」の無償提供を打ち切るというものでした。

一般の都営住宅の入居者として住み続けるためには、申込みが必要であり、「世帯全体の収入が一定以下」という条件が付きました。私には、まだ学生の兄弟がおります。この世帯全体の収入は、たとえ学費を稼ぐためのアルバイト代であったとしても換算されてしまうのです。学ぶことを打ち切られた私と同じ思いを兄弟にはさせたくありません。

私たちは区域外避難者であり、東京電力からの賠償金もわずかしか支払われず、私の家族のように生活に困っている避難世帯が多くあります。原発事故のために故郷を離れることを余儀なくされ、生活を壊されたあげく、避難を続けるために進学を諦めざるを得ない。それが、区域外避難者の実情です。

結局、私たち家族は、家賃の高い民間の賃貸住宅に引っ越すこともできず、都営住宅の入居申し込みもできず、そのまま都営住宅にとどまらざるをえない状態が続いています。

私たち家族にとっては、東京が避難生活の拠点であり、今の自宅が、私たちの大切な家なのです。それにも関わらず、原発事故から避難するための基盤である住宅までも奪われようとしているのです。

私たちは、国などの行政に対して、せめて、みなし仮設住宅の提供を再開・延長するよう求めています、しかし、依然として国などから無視され続けています。私たちは追い詰められています。

7 原発事故にはじまり、激動の日々の中で私は過ごしてきました。その7年の間に一緒に避難してきた祖父は亡くなり、祖母も脳卒中で倒れました。私たちは今後自分たちがどうなるのかについて怯え、振り回されている状況です。

それでも、私たち家族は、今、目の前のやるべきことを行いながら、寄り添い合うようにして力を合わせ、原発事故で破壊された生活を立て直そうと、必死で生きています。

そんな私たちには、夢があります。

早く立派になり、今日に至るまでお世話になった多くの方々に、恩返しをするという夢です。

しかし、積み上げた努力が根元から崩されるようなことがあっては、いつまでも前に進むことができません。

この裁判においては、私たち原発被害者の実情と意見にしっかりと耳を傾けてくださることをお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回期日は、来年2月6日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan

福島原発被害東京訴訟第2陣(3次訴訟)第2回期日のご案内

日時:2018年11月14日(火)10時30分~
場所:東京地方裁判所103号法廷
(東京都千代田区霞が関1-1-4/東京メトロ丸の内線・日比谷線・千代田線「霞が関駅」A1出口すぐ)

第2陣の裁判には、避難者だけでなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り栃木県北地域)も原告に加わり、原発事故被害の総体を追及するものとなっています。
当日は、原告(区域外避難者の若者)と弁護団による意見陳述があります。
原発事故による放射能の被害を受け、国と東京電力を相手に裁判に立ち上がった原告の皆さんを応援し、国と東電の責任を正しく追及する裁判が行われるよう、支えましょう!多くの皆さまの傍聴をお願いいたします。
法廷終了後、報告集会を行います。こちらにもご参加ください。

<報告集会>
閉廷後(11時ころ)に移動して11時すぎから
弁護士会館(霞が関)12階 第一東京弁護士会講堂
(裁判所庁舎の隣・日比谷公園寄りの建物)

<お問い合わせ>
福島原発被害首都圏弁護団(オアシス法律事務所内)
℡03-5363-0138

<福島原発被害東京訴訟第2陣について>
福島原発被害東京訴訟は,原発事故によって福島から首都圏に避難せざるをえなかった人たちが、2013年3月11日、国と東京電力の責任を追及するために起こしたものです(第1陣)。
第3次提訴以降(第2陣)は、避難者だけではなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り、栃木県北地域)も訴訟に参加し、原告は312名(4次訴訟まで)となっています。
国と東京電力は,一体となって原子力発電事業を推進し,住民の安全よりも経済的利益追求を優先した結果,福島原発事故を発生させるに至りました。
福島原発事故から7年が経過した今でも,十分な賠償は実現されておらず、特に、避難区域外に住んでいた人たちは、事実上、カヤの外に置かれています。
低線量であっても放射線の被ばくの人体に対する影響は否定しがたく、避難区域の内外を問わず、被ばくを避けるために避難することは必要かつ合理的な行動です。また、被害地域住民にとっては、放射性物質によって汚染されてしまった自宅や地域での暮らしの原状回復・生活再建に見合う十分な賠償が必要です。
今年3月の1・2次訴訟の判決で、東京地裁は、国と東京電力の責任を断罪し、原告47人中42人に対する賠償の支払いを命じ、原告が勝訴しました(現在、賠償の増額を求め、東京高等裁判所に控訴中。)。
そして、いよいよ、被害地域住民も原告となった3次訴訟が始まりました。被害地域住民と避難者が共に闘う新しい裁判のスタートです。当日の法廷では、福島県の避難区域外から東京に避難している若者と弁護団が意見陳述を行う予定です。
この裁判を通じて、原発事故による被害の実相を明らかにし,国と東京電力の加害責任を前提とした完全賠償を実現することを目指しています。

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第1回口頭弁論期日のご報告

去る7月31日(火)午前10時30分から、東京地裁103号法廷において、福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第1回口頭弁論期日が開催されました。

第2陣の裁判には、避難者だけでなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り栃木県北地域)も原告に加わり、原発事故被害の総体を追及するものとなっています。

当日は、原告側からは、福島県田村市に住む原告の方1名(原告番号B-1)と、弁護団3名による意見陳述が行われました。

以下では、この田村市に住む原告の方の意見陳述をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)自己紹介

私は,この裁判の原告で、福島県田村市常葉町早稲川柳渡戸に住んでいます。当時,私の家族は,妻,両親,弟,息子夫婦,孫たちで暮らしていました。

今回の原発事故で,家族が一時的にバラバラになり,また,放射能汚染により生活の面で様々な影響を受けていますし,地域のつながりもメチャメチャにされてしまいました。この経過について,以下,述べさせていただきたいと思います。

(2)早稲川地区について

私たちが住んでいる田村市常葉町早稲川地区というのは,郡山の駅から車で1時間20分から30分くらいのところにあります。周りは小高い山に囲まれていて,主に田んぼで米を作ったり,畑でトマトなどの野菜を作ったり,肉牛の飼育をしたりして生計を立てている人が多い地域です。私は,両親を継いで,米やトマトを作っていました。

そして,春には,山に入って山菜を採り,秋にはキノコ狩りをして,自然の恵みを楽しんでいました。決して,豊かとは言えませんが,自然の恵みに囲まれた生活でした。

また,周囲の人たちとの関係もとても良く,ことある度にみんなで集まって,お茶や食事をしたり,お祭りなどの行事を行っていました。

ごく普通の平和な暮らしをしていたところで,今回の原発事故が起きてしまったのです。

(3)原発事故時の状況

平成23年3月11日,東日本大震災が起きました。とても大きな揺れで驚きましたし,テレビを見ると大きな津波が起きていたので,一体どうなるだろうと思っていました。そうしたところ,今度は,原発で事故が起きて,一部の地域で避難指示が出されていることをテレビで知りました。私たちは,まさか原発で事故が起きるなどとは思いもしませんでした。

そうこうしているうちに,私たちの住んでいる地域も原発から30キロぐらいということで,避難しなければならないという情報が入ってきました。実際に,自宅の近くに検問が敷かれました。また,警察や自衛隊の人が巡回して,「いつ,避難しますか?」と尋ねてきたりしました。

そのため,私たちとしても,避難をしなければならないと思い,まず,両親を埼玉県上尾市の私の弟の家につれて半年ほど避難させました。妻は,田村市船引町で仕事をしていましたので,しばらくその場にいてもらいました。息子夫婦と孫は,一旦郡山に避難して,それから埼玉の娘の家に学校が始まる時期まで避難をしていました。私は,当時,民生委員をしていたので,集落の人たちを見届けなければならないと思い,両親を上尾の弟の家に連れて行って数日泊まってから,自宅に戻りました。

自宅に戻って,数日経つと検問がなくなって,警官や自衛官もいなくなっていたのです。しかし,放射能汚染が広がっているということは,報道などでも知っていたので,一体どうなっているんだろう。大丈夫だろうかと思っていました。

(4)放射能汚染の影響

原発事故により,私たちは,放射能を気にして生活をしなければならなくなりました。食べ物については,当初,地元以外の物を買って食べたり,水についても飲み水については,ペットボトルのものを買うなどしていました。今でも,孫たちが食べたり飲んだりするものについては,息子たちが気を使っています。孫たちも外ではなく家の中で遊ぶことが多くなってしまいました。

農業に関しても,いつも放射能検査をして,基準値を下回るものを出荷しています。そして,もともとは,山にある枯れ葉を使って堆肥を作り,それを肥料として使っていましたが,使うことが出来なくなりました。現在でも,堆肥を使うことは出来ず,わざわざ化学肥料を買って使っています。また,山での狩猟が行われなくなったため,猪が畑や田んぼに現れて,荒らしていくこともしばしばです。

毎年楽しみにしていた山菜採りやキノコ狩りも出来なくなりました。

これ以外にも様々なことで放射能を気にして生活していかなければなりません。

(5)賠償の格差による地域の分断

さらに,賠償の格差が地域のつながりをメチャクチャにしました。

平成23年4月中ごろ,私たちの早稲川行政区は,避難区域に含まれず,隣の堀田行政区は,避難区域に含まれるということを知りました。それは,堀田行政区は,は,1件が30キロ圏内に入っていることから,全体として避難区域となったのです。それ以外の家は,30キロ圏内には入っていません。むしろ,私たちの集落より原発から離れているところもあります。結局,道1つを境に避難区域とそうでない区域とに分かれることになってしまいました。

しかし,私たちの早稲川と隣の堀田とでは,ほとんど放射線量が変わりません。むしろ,こちらの方が高い場所もあります。実際に,早稲川公民館で測ったところ堀田よりも高い数値が出たことから,田村市は慌てて,公民館の敷地にアスファルトを敷いたということもありました。

こうした避難区域とそうでないところの違いにより,両地域では,原発事故での賠償金などで大きな差が出てしまいました。実際に,隣の区域の人たちは,数百万円の賠償金が支払われていますが,私たちは,ほとんど賠償金が支払われていません。

また,賠償問題だけでなく,義援金を受けられる金額も大きく違いますし,税金・医療費の免除などについても減免などでも大きな差が生じています。今も田村市では,医療費などで差が生じています。

その結果,避難区域となっている隣の行政区にある集落の人たちとの間にわだかまりが生じてしまいました。中には,親戚などもいたりするにもかかわらずです。実際に,隣の集落の人と会ったり,飲んだりした際に,会話をしても,賠償の問題にはお互い触れず,微妙な雰囲気になります。子ども達の間でも学校でトラブルがあったときいています。今までは,私の家の裏にある神社で隣の行政区の集落の人たちと一緒にお祭りなどをしていましたが,原発事故後最近まで,一緒にお祭りをすることはありませんでした。冠婚葬祭での付き合いすら遠慮するようになった人がいるとも聞きます。

また,私たち早稲川行政区内でも,「なぜ,行政区として,避難区域にするよう求めなかったのか。」という区長らに対する批判の声があがったりして,お互いの人間関係がギクシャクしています。

原発事故は,放射能汚染だけでなく,これまで仲良く暮らしていた地域のつながり,団結を声が壊してしまいました。

(6)提訴に至る経緯

私たちは,平成23年4月頃から柳渡戸・根子田の集落を中心に有志で,市や国,国会議員,東京電力などに要望してきました。

しかし,どこに要請に行っても対応してくれませんでした。

そこで,東京で避難者を支援している「とすねっと」を通じて,弁護士たちを紹介してもらい,早稲川の他の集落にも呼びかけて,裁判を起こすことにしました。

(7)私たちの願い

私たちの願いは,もとの地域を戻してほしいということです。それは,放射能汚染がない状態にしてほしいと言うことだけでなく,壊れてしまった地域のつながりを元に戻してほしいということです。そして,こうした被害に対して,きちんと償ってほしいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第2回期日は、11月24日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第1回期日及び報告集会のご案内

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第1回期日が、7月31日(火)午前10時30分から行われます!

第2陣の裁判には、避難者だけでなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り栃木県北地域)も原告に加わり、原発事故被害の総体を追及するものとなっています。
当日は、原告と弁護団による意見陳述がありますので、法廷は12時近くまで続きます。
原発事故による放射能の被害を受け、国と東京電力を相手に裁判に立ち上がった原告の皆さんを応援し、国と東電の責任を正しく追及する裁判が行われるよう、支えましょう!多くの皆さまの傍聴をお願いいたします。
法廷終了後、報告集会を行います。こちらにもご参加ください。

<福島原発被害東京訴訟第2陣について>
福島原発被害東京訴訟は,原発事故によって福島から首都圏に避難せざるをえなかった人たちが、2013年3月11日、国と東京電力の責任を追及するために起こしたものです(第1陣)。
第3次提訴以降(第2陣)は、避難者だけではなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り、栃木県北地域)も訴訟に参加し、原告は312名(4次訴訟まで)となっています。
国と東京電力は,一体となって原子力発電事業を推進し,住民の安全よりも経済的利益追求を優先した結果,福島原発事故を発生させるに至りました。
福島原発事故から7年が経過した今でも,十分な賠償は実現されておらず、特に、避難区域外に住んでいた人たちは、事実上、カヤの外に置かれています。
低線量であっても放射線の被ばくの人体に対する影響は否定しがたく、避難区域の内外を問わず、被ばくを避けるために避難することは必要かつ合理的な行動です。また、被害地域住民にとっては、放射性物質によって汚染されてしまった自宅や地域での暮らしの原状回復・生活再建に見合う十分な賠償が必要です。
今年3月の1・2次訴訟の判決で、東京地裁は、国と東京電力の責任を断罪し、原告47人中42人に対する賠償の支払いを命じ、原告が勝訴しました(現在、賠償の増額を求め、東京高等裁判所に控訴中。)。
7月31日に開かれるのは、被害地域住民も原告となった3次訴訟の第1回口頭弁論です。被害地域住民と避難者が共に闘う新しい裁判のスタートです。当日の法廷では、被害地域の住民の方、避難者の方、弁護団が意見陳述を行うことを予定しています。
この裁判を通じて、原発事故による被害の実相を明らかにし,国と東京電力の加害責任を前提とした完全賠償を実現することを目指しています。

福島原発被害東京訴訟・第2陣(3次)訴訟
[第1回期日]
日時:7月31日(火) 午前10時30分~
場所:東京地方裁判所 103号法廷[東京都千代田区霞が関1-1-4]
原告及び弁護団からの意見陳述を行います。

☆傍聴が抽選(傍聴券配布)になる予定ですから、抽選の受付が締め切られる10時ころまでに裁判所正門前にお集まりください。
☆9時40分頃より地裁前でチラシ配布・アピールなどいたします。こちらにもご参加ください。

[報告会]
日時:7月31日 裁判終了後(12:00頃~)
場所:弁護士会館5階508
当日の裁判の説明,これまでの経過報告とともに,今後の手続の流れや方針などについて,弁護団からご報告します。

最寄り駅は、いずれも
地下鉄丸ノ内線,日比谷線,千代田線「霞ヶ関駅」(裁判所はA1出口そば)
または地下鉄有楽町線「桜田門駅」 です。

(その後の期日予定) 11/14(水)10時30分、2/6(水)10時30分

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan