去る2月6日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれました。
この日は、福島原発事故後に福島県いわき市から東京に避難し、現在まで約8年間避難生活をしている原告番号A7さんの意見陳述が行われました。
以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。
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1 原発事故が起きるまで
私は、昭和21年に福島県石城郡小名浜町に生まれました。石城郡というのは、今のいわき市です。その後もいわき市で育ち、夫と結婚しました。長男、長女の2人の子どもに恵まれ、20年間くらい、東京で暮らしたこともありましたが、昭和63年ころにはいわき市に戻り、2011年3月11日の原発事故が起きたときは、夫、長女と長女の子ども、長男の5人で暮らしていました。
私は原発事故の1年半前に、脊髄梗塞にかかり、両足麻痺の後遺症で車いす生活となりました。3年半にわたる両親の介護と看病の末の疲労が原因でした。この病気で排尿機能障害も併発し、管を通して排尿をする生活でした。
2011年3月初め、そんな車いす生活の私のために、私の家族は、車いすでも生活しやすいようにと引っ越しを決め、転居先の大家さんにお願いして新居をバリヤフリーに改装させていただいたところでした。大家さんから新居の鍵も受取り、これからはやっと車いすでも住みやすい家に住める、願ったり叶ったりで、家族みんなで、3月末の引っ越しを心待ちにしていました。
2 原発事故が起きた
(1)町が静まり返った
でも、そんな矢先に東日本大震災が起こり、福島第1原発が水素爆発を起こしました。
「窓を開けないでください」「換気扇にはガムテープで目張りをしてください」と、あちこちで言われました。
3月14日の午前中には、2度目の水素爆発が起こり、その様子がテレビに映し出されていました。
3月15日、いわき市役所の合同庁舎の空間放射線量は、1時間あたり23.72マイクロシーベルトと報道されていました。
町中はシーンと静まり返り、いわき中の空気が黄色く淀んだように見えました。時間が止まったかのように、辺り一面、何ともいえない重苦しい気配が漂っていました。
それでも夫は、給水車を求めて出かけて行きました。何時間もかかって戻ってきましたが、抱えていたのは、割り当て分の飲み水程度の量の水でした。いわき中がそんな様子でした。広報車が廻ってきて、「外に出ないでください」「外出している人は、家に入る前に着ているものを脱いで、シャワーを浴びてください」とさかんに広報していましたが、シャワーを浴びられるほど水はありませんでした。
(2)病院へ
私は、排尿機能障害をもっていますので、毎日、通院して排尿処理とリハビリをしなければなりませんでした。原発事故が起きたときも処理のために病院に行かねばなりません。3月14日、いつものように病院に行きましたが、玄関は閉鎖され、救急口に回されましたが、そこには防護服と防護マスクをした警備員が立ちはだかっていました。結局自宅で待機をするように言われて自宅に戻り、3時間くらい待ちました。再度病院に呼ばれていくと、病院はいつ再開できるかわからないとのことでした。いわきからいつでも避難できるようにと、排尿袋をつけることになりました。
3 避難生活を始める
病院で避難を促されたので、私達夫婦と長女親子の4人は、3月14日、いわきから避難することにしました。ただ、長男は仕事があるために避難することができませんでした。
まずは夫の友人を頼って横須賀へ行き、アパートを探しましたがなかなか見つけることができませんでした。結局、3日間、ウィークリーマンションで生活しました。
3月18日には、避難所の東京武道館に行きましたが、すぐには中に入れてもらえませんでした。入口の横に作られたビニールでできた部屋で、防護服と防護マスクの検査員の方から、頭の先から足の先、口の中まで被ばく検査を受けました。
車いすの私にとって、避難所の床で寝起きする生活は大変苦労しました。ですから、洗面所とトイレでの排尿袋の処理のとき以外は、いつも身体を横たえているほかありませんでした。神経内科と泌尿器科の診療に行くにも、救護班の方の手をお借りしなければなりませんでしたので、申し訳ない気持ちで診療を受けました。
入浴も10日に1回くらいしかできませんでした。
ただ、そんな不自由な避難生活ではありましたが、武道館で知り合った方々とは、今でも苦しみを分かち合える仲間となり、家族のように交流を続けています。
4 いわきに戻れず家族離ればなれに
いわきに残った長男は、原発事故当時、物流ドライバーをしていましたが、原発事故で物流がストップしたために失業してしまいました。
原発事故前に借りて住んでいた家は、借り上げ住宅に提供されることになったことから賃貸借契約の更新をしていただけず、戻れませんでした。入居予定だった新居も、大家さんの親戚が避難先として使いたいとのことで、断られてしまいました。そのため長男は、住まいを失い、原発事故から4か月くらいの間、車の中で寝泊まりをしていました。
多方で、私と夫と長女親子は、2011年4月23日、ようやく新宿の都営住宅に入れることになりました。ところが、その途端に、長女はひきこもりがちになってしまいました。
長女は避難したことで失業し、2年間、東京での就職先を見つけることができませんでした。また、4人での避難生活はストレスが重なりました。長女との喧嘩も絶えず、私と夫は体重が10キロ減りました。2012年8月まで4人での同居生活を頑張りましたが、ついに限界を迎え、私と夫は長女親子と別居しました。そのため、片時も離れて暮らしたことのない、孫とも別居することになりました。夫にとっては、これが最大のショックだったようです。
いわきに残してきた家財道具も、避難先のアパートには入り切れないので、全て処分しました。思い出に残るものも失いました。
5 夫の死
原発事故の年の8月、夫は、今まで味わったことのない倦怠感、脱力感をしきりに訴えるようになりました。私は当初、今思えば気軽にも、単に引っ越しや片付けの疲れが出たのだろうとしか考えていませんでした。
でも、その後も夫は体調の不良を訴えて、病院を3か所まわり、検査を受けました。そして2011年12月、悪性リンパ腫と診断されました。私達の家族はそれまで全員、癌とは無縁でしたので、夫の悪性リンパ腫はとても信じられませんでした。
がんとの闘病生活の中、私と夫は、長女親子と別居することになりましたが、転居先のアパートでは「放射能がしみ込んだごみは集積所に捨てるな」などと言われたり、私たちと同じようにして避難してきた避難者から誹謗中傷を受けたりもしました。転居先でのこうしたできごとが、夫にかなりの精神的な負担となってしまいました。
夫は、最後まで、「絶対病気に勝つ」と気丈に闘い、根気強く、病気と向き合ってきましたが、転居先での精神的な疲労もあり、みるみる内に骨と皮ばかりにやせ細り、2013年11月30日、亡くなりました。避難先で最期を迎えたことは、どんなにか無念だったろうと思います。
6 父の死
いわきに一人残してきた私の父も、4年前の2014年8月11日に一人で寂しく亡くなりました。父は、いつも「家族に会いたい、会いたい」「私に最後まで介護してほしかった」と言っていたそうです。その当時、私には、父の葬儀に参列してあげるお金もありませんでした。こんなことになって無念ですしとても悔やしいです。
7 いまの私の生活と思い
あちこちで「自主避難」と言われ、何かと差別を受けますが、原発から20キロ圏の人も50キロ圏の人も、なくしたものは皆同じです。
原発事故からもうじき8年となり、今は、帰る故郷だけでなく、一家の柱の夫を亡くしました。家族もバラバラになりました。
いわゆる「区域外避難」だから、生活保障もありません。避難生活中に貯金も使い果たしました。夫が悪性リンパ腫だとわかり、年金はすべて、医療費に消えました。夫の葬儀にもお金がいりました。夫の入院費用は、分割払いにしていただきましたが、返済し終えるまでまだ3年かかります。私は今、夫のいなくなった避難先アパートで独り暮らしをしています。夫の遺族年金で生活していますが、公共料金と食費を支払ったら、お金はなくなってしまいます。
それなのに、2014年、父を亡くしたばかりのころ、東電の方から電話があり、これまで支払猶予だった電気料金をさかのぼって全額支払ってもらうと言われました。東電の料金課の方からは、「電気料金を支払えないときは、電気を止めるか、区役所に相談に行ってください」と言われました。何と心無い、無責任な一言だろうと、憤りを感じました。電気を止められてしまったら、一人暮らしのたった一つの楽しみであるテレビも見られず、私の足である電動車いすの充電もできず、どこにも行けない生活となってしまいます。なぜ私が電気料金すらも滞っていたのかわかりますか?
東京に避難をしてきた数年は、日々の暮らしに必死でした。もうじき避難をして8年です。今は、夜中にふと目を覚ますことが多くなりました。夫も亡くなり、避難先で一人暮らしとなり、年を重ねていく不安から、今は、故郷に帰りたいという思いが日に日に強まります。でも、いわきには、住むところだけでなく、帰れる居場所も失いました。私たち避難者はこれからどうすればよいのでしょうか。
私には、夢も希望もない生活が待ち受けています。今思うことは、こうなってしまったのは、あの福島第一原子力発電所がもたらした無責任な事故の結果にほかならないということです。願いが叶うのなら、家族5人、仲良く、にぎやかだった家庭を元に戻していただきたいと思います。
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<次回の裁判期日について>
この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第4回期日は、5月29日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。
是非、傍聴のご支援をお願いします。
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