福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第4回口頭弁論期日のご報告

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去る5月29日、東京地裁103号法廷で、福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第4回口頭弁論期日が開かれました。

 

この日は、栃木県の県北地域(那須塩原市)に住むある女性の原告(原告番号C1-1)が、法廷で意見陳述を行いました。

 

栃木県の県北地域は、福島県に隣接する地域であり、実は、原発事故の放射線被ばくを相当程度受けている地域です。

 

しかしながら、実際にはまったく被害の救済がなされていない地域です。

 

福島原発被害東京訴訟では、福島県からの避難者の他、福島県内の放射能汚染地域に居住する原告(いわゆる滞在者)もおり、さらに、福島県以外の栃木県北地域の住民も原告になっています。

 

今回の裁判では、上記の原告は、福島原発事故後の栃木県北地域の被害について、克明に意見陳述を行いました。

 

以下で、その意見陳述の内容を以下で紹介します。

 

【原告番号C1-1の意見陳述】

 

2011年の東日本大震災・福島原発事故発生当時、私は栃木県那須塩原市の自宅におりました。私の両親と末の三男と一緒に住んでおり、長男・次男は留学中でした。三男は、幼稚園の卒園を控え、既に春休みに入っていましたので、自宅におりました。

 

3月17日が卒園式でしたが、2日前の15日に福島第一原発の3号機が爆発を起こしたのを映像で見たので、家の外へ出して卒園式へ参加させるか非常に悩みました。当時、家の周辺、市内の放射線量がどのくらいなのか、どのくらいの放射性物質が飛んできているのか、わからなかったからです。息子の通っていた幼稚園から、原発事故に配慮して、室内だけで時間を短縮して卒園式を行うとの連絡があったので、マスクをし、園までは車に乗せて、息子を出来るだけ外へは出さないように卒園式に参加させました。

 

その後いくら待っても、東京電力から原発事故についての説明はありませんでした。市や学校は「大丈夫」と言うばかりで、やはり具体的な説明はありませんでした。「大丈夫だから、通常通りに学校に子どもを通わせるように」と言われても、どう大丈夫なのか、確信が持てないことをできるはずもありません。原発事故に伴う放射性物質の降下物もありますので、三男には5月の運動会の練習をさせず、室内待機をさせていました。そんな中、原発事故の状況や自分たちの環境を心配した他の保護者とともに、状況を把握し、子どもたちの安全を図るべく、6月最後の日に市民団体を立ち上げました。

 

栃木県が6月になってようやく放射線の測定を始めました。驚いたことに、校庭の線量が1μSV/hを超える学校もありました。しかし、部活動は普通にしていましたし、プールのお掃除も子どもが胸までつかってする学校もありました。みんなが状況を把握して、納得した上でやっているとはとても思えなかったので、学校、市教委、市と話をしようと伺いましたが、「文科省が大丈夫と言っている」「国が大丈夫と言っている」と言って、最初は取り合ってもらえませんでした。そこで、市民団体を立ち上げ、同時に、校庭の表土除去を求める署名活動を始めたのです。

 

原発が危ないとのニュース聞いた3月12日から、3月・4月中は、計画停電の中で、放射線や放射性物質に関する知識を得るため、必死にネット検索をしていました。チェルノブイリ原発事故での汚染の広がり方から風向きと地形の関係性を那須塩原市へ指摘し、線量を測定して把握するまでは単純に大丈夫とは言えないと抗議しました。後から知ったことですが、その時、国は放射線量の実態を那須塩原市の住民に知らせることなく、ただ、大丈夫とだけ伝えられたのですが、何故そうしたのか、今でも理解できません。パニックを避けるためと有識者のお話を伺ったことがありますが、パニックを起こしていたのはむしろ国であると思います。

 

私は、どんな状況で今後も同じ地域に住めるのか、状況判断と安全対策のために必死で勉強して、その間にも息子が緊急な危険にさられているかもしれないので、夏には海外へ避難させていました。

 

今でもよく覚えているのは、3号機が爆発した後、冷却水が注入されるまで、いつまた爆発するから解らない状況の中、ガソリンも不足していたり、東北の津波での混乱と物資も不足して、いつ避難しようかと、避難できるのだろうかと、我が子の寝顔を見ながら必死に考えていたことです。かろうじて様子を見るにとどまったのは、コンクリートが放射線の遮蔽物になることは広島・長崎での原発事故に関しての本を子どもの頃読み、そのことを覚えていて、そして我が家がたまたま鉄筋コンクリートの家であったからです。原発から100kmあれば、少なくとも即死は免れるだろうとも考えたからです。

 

それとよく覚えているのは、卒園式のあった3月17日の夕方、食器を洗おうと水道水を出すと、水を流し始めてから数秒後に一気に水が硬くなったのを感じました。水がおかしいと感じて、手をひっこめたのを覚えています。シャワーの水も同じような感じでした。それから2日くらいして手の皮がむけ、やがて、全身垢すりでもしたかのように皮がポロポロと剥けだしました。それは1か月ほど続きました。足の裏の皮は、3か月近く剥けていたと思います。これは水道水に混じった放射性物質に直接触れたことにより起こったことではないかと疑っています。同じ市内の近くに住む友人も、水道水がおかしいと言い、同じように手の皮がぼろぼろになったと言っていました。後に放射線の専門家とお話する機会が何度かありましたので、この話をしたところ、放射性物質に直接触ってしまったことで起こり得ることではあると思うとの意見をいただきました。また、息子は当時、鼻血がよく出ました。それも、放射性物質を吸い込んで鼻の粘膜に付着したためではないかと思っています。大人でも、除染の為屋根を掃除した方や、原発事故当時ずっと屋外に居た方が、やはり鼻血を出したと聞いています。

 

放射線の被ばくでは身体への影響が最もこわいです。実際、体の異変も感じていたので、甲状腺のエコー検査は、2012年から受け、2013年からは自分たちが主催団体になって実施しています。

 

原発事故から4年くらいまでは、東電はいつ説明に来るのだろう、謝罪はするのだろうかと考えていました。国も政権が代わって、改めて説明に来るのではないかと思っていました。しかし、それもなく、8年の歳月が経ちました。原発事故は、結局福島県だけの問題とするように見えます。これまで市や県が講じた対策以外に、国、東電からの説明も今後の対策・対応の話もありません。

 

しかし、原発事故は福島県だけの問題ではありません。放射性物質による汚染は、県の境を超えて、栃木県にも及んでいます。現在も、庭の山菜やキノコは食べられません。市が私の自宅周辺を除染した際に出た放射性廃棄物も、ずっと庭に埋められたままです。国策として行って来た原発事業が、事故を起こし、その後の対策が市町村任せというのはあまりにもずさんだと言わざると得ないと思います。

 

原発事故後の対応を東電に問い合わせたこともあります。「今のところ福島県の方だけの対応で、今後対応の枠が広がればお知らせ致します。」といった内容でした。枠も何も、庭で栽培していた原木しいたけはキロあたり900ベクレルもあって食べられません。それも雨を含んで散々膨らんだ状態のものを測定して、です。市場に出回るサイズのしいたけを測定したなら、キロあたり1000ベクレルは超えると思います。それも直ぐに測定するのが怖かったので、原発事故後3年目に測定したものです。もう庭でしいたけは栽培しても食べられないので、その後原木ごとしいたけは放置し、その後市が自宅を除染する際に一緒に庭に埋めてもらいました。

 

私の自宅周辺は林なのですが、市に除染して頂いた自宅の周り以外、周辺の林に入ると今も平均して、0.4μSV/hほどあります。付近の山菜は出荷停止になるレベルの放射性物質を含んでいます。息子は庭で遊ぶこともなく、小学生時代を過ごしました。外遊びをするには、線量のより低いところへ連れて行きました。現在も原発事故当初と同じ場所に住んではいますが、山菜等は食べられません。家庭菜園は、原発事故後に放射性物質の野菜等への移行を防ぐ方法を必死に学び、事故後3年してからやっと再開しましたが、定期的に作物のベクレル量の測定をしないと食べられません。今後も気が抜けないことを考えると、移住も考えざるをえないと思っています。原発事故前は、庭でできる農作物や山菜、きのこを毎年楽しみして暮らしていたのですが、畑のものは定期的に測定する負担が大きく、山菜やきのこは見つけても食べられません。原発事故前と暮らしが全く変わってしまい、大変悔しい思いをしています。

 

原発事故当時の話になると、放射線の測定もしていないのに、子どもを外へ出してしまったなどの後悔の声は今もお聞きします。少ないからいいとか、このくらいなら大丈夫という問題ではなく、無用に被ばくする必要はなかったはずです。原発事故後しばらくの間、栃木県の私たちに放射能汚染の実態を伝えられなったことは、人権の無視だと感じました。私は、汚染状況の把握と今後の対応を質問しに学校を訪ねたときには、「自己責任」と言われました。「国が大丈夫だと言っているのだから、心配するのはおかしい」という風潮もあって、保護者の中には、心配しながらも、「心配だ」とすら言えず、ただ子どもを見守るしかなかった人もいます。国が汚染状況を率直に説明をしなかったことで生じた混乱や軋轢は、見逃せないものがあると思います。

 

放射性物質が降ってきて食の安全が脅かされ、身体に異変を感じ、庭にはまだ残る放射性物質。そして、私の住む地域で除染などで出た放射性物質の行き場は決まらず、問題は解決していません。それに加えて、今後も、食べ物の安全をそのつど確認しながら、健康被害を気にしながら、生活していかなくてはなりません。こうしたことに謝罪どころか、一度も説明がなく、汚染などへの対応に費やした時間や費用には何の償いもありません。責任の所在もうやむやのままです。こんな状態の国をこのまま次の世代に渡すのは、大変申し訳なく、耐えがたいものがあります。

 

私たち栃木県北地域住民の被害を認めていただき、責任の所在を明らかにして頂きたいと思います。

 

【今後の裁判期日について】

福島原発被害東京訴訟では、今後下記のとおり裁判期日が予定されています。裁判終了後は、近くで報告集会も予定されています。

 

是非傍聴をお願いします。

 

第5回期日 2019年9月4日(水)午前10時30分~  東京地方裁判所1階103号法廷

第6回期日 2019年12月4日(水)午前10時30分~ 東京地方裁判所1階103号法廷

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1-28-3 TSG御苑ビル3階
          オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/
          電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
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福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第4回期日のご案内

福島原発被害東京訴訟第2陣第4回期日(5月29日)の傍聴をお願いします。

今回は、従来の大3次訴訟に加えて、2018年に提訴した第4次訴訟も同じ手続で併合される予定です。

★日時:2019年5月29日(水)10時30分開廷
★場所:東京地方裁判所103号法廷
(千代田区霞が関1-1-4 東京メトロ霞が関駅A1出口すぐ)

期日に先駆けて、地裁門前では、9時30分頃から、原告らのスピーチが行われますので、是非、そちらにもご参加ください。

★原告団から
私たち福島原発被害東京訴訟(通称:東京訴訟)は、福島及び関東の汚染地域の在住者及び避難者300余名が原告となり、国・東電を訴えている裁判です。
法廷では、原告らが8年経った今も続く原発事故の様々な被害を、涙ながらに証言します。一方、事故の責任を認めようとせず、あまつさえ被害者らを貶める発言を続ける被告国・東電の態度には、怒りが沸き起こります。
テレビでは殆ど報道されることのない、原発事故の真実を、是非、法廷でご覧ください。皆さまの参加が裁判を支えます。是非、傍聴で私たち原告を応援してください。
法廷でお待ちしております。

★報告集会:
時間:裁判終了後(11時ころ)に移動します。
会場:弁護士会館10階1006AB会議室

★問い合わせ:福島原発被害首都圏弁護団(03-5363-0138 オアシス法律事務所内)

第8回 広域避難者集会のご案内

福島原発事故の避難区域外における<被ばくのおそれ>の危険性を軽くみせようとした「宮崎・早野論文」問題。黒川先生をお招きして、不正疑惑に切り込み、被ばく問題の根本に迫ります。多くの市民の参加をお願いします(参加無料・予約不要)。

被ばく被害を軽くみせるな!
4・14 第8回広域避難者集会2019

日時:4月14日(日)13時30分~16時(開場13時)
場所:ニコラ・バレ修道院9階
(東京都千代田区六番町14−4)
※JR四ツ谷駅麹町口徒歩1分です(主婦会館の斜向かい)。

<内容>
第1部「早野論文の問題・不正を暴く!」
講演 黒川眞一氏(高エネルギー加速器研究機構名誉教授)
パネルディスカッション 黒川眞一氏+島明美氏(伊達市民)+鴨下祐也氏(ひなん生活をまもる会代表)+森川清氏(とすねっと代表)
第2部「避難者リレートーク」
住宅打ち切りの対応など
その他、とすねっと実施「2018年度原発事故による避難世帯の実態調査」の結果報告(冊子販売あります)

<第1部内容紹介>
避難区域外における被ばくのおそれを過小にみせたのではないか--原発事故による住民の被曝の影響は小さいとする根拠にされていた「早野論文」に「不正疑惑」が浮上しています。被ばくのおそれは避難世帯が最も心配していることであり、見過ごせない問題です。
この問題を追及している黒川眞一先生と伊達市の住民の方を招き、何が問題なのか、被ばくのおそれを過小評価しようとする流れをいかにストップさせるかを考えます。
黒川先生の講演が聴ける貴重な機会です。ぜひ、多くの方の参加をお願いします。

主催=きらきら星ネット、東京災害支援ネット(とすねっと)、ひなん生活をまもる会
協力=福島原発被害東京訴訟原告団、福島原発被害首都圏弁護団、福島原発被害東京訴訟サポーターズ
連絡先=ひぐらし法律事務所内・広域避難者集会事務局 電話 03-6806-5414

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第3回口頭弁論期日のご報告

去る2月6日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれました。

この日は、福島原発事故後に福島県いわき市から東京に避難し、現在まで約8年間避難生活をしている原告番号A7さんの意見陳述が行われました。

以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。

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1 原発事故が起きるまで

私は、昭和21年に福島県石城郡小名浜町に生まれました。石城郡というのは、今のいわき市です。その後もいわき市で育ち、夫と結婚しました。長男、長女の2人の子どもに恵まれ、20年間くらい、東京で暮らしたこともありましたが、昭和63年ころにはいわき市に戻り、2011年3月11日の原発事故が起きたときは、夫、長女と長女の子ども、長男の5人で暮らしていました。

私は原発事故の1年半前に、脊髄梗塞にかかり、両足麻痺の後遺症で車いす生活となりました。3年半にわたる両親の介護と看病の末の疲労が原因でした。この病気で排尿機能障害も併発し、管を通して排尿をする生活でした。

2011年3月初め、そんな車いす生活の私のために、私の家族は、車いすでも生活しやすいようにと引っ越しを決め、転居先の大家さんにお願いして新居をバリヤフリーに改装させていただいたところでした。大家さんから新居の鍵も受取り、これからはやっと車いすでも住みやすい家に住める、願ったり叶ったりで、家族みんなで、3月末の引っ越しを心待ちにしていました。

 

2 原発事故が起きた

(1)町が静まり返った

でも、そんな矢先に東日本大震災が起こり、福島第1原発が水素爆発を起こしました。

「窓を開けないでください」「換気扇にはガムテープで目張りをしてください」と、あちこちで言われました。

3月14日の午前中には、2度目の水素爆発が起こり、その様子がテレビに映し出されていました。

3月15日、いわき市役所の合同庁舎の空間放射線量は、1時間あたり23.72マイクロシーベルトと報道されていました。

町中はシーンと静まり返り、いわき中の空気が黄色く淀んだように見えました。時間が止まったかのように、辺り一面、何ともいえない重苦しい気配が漂っていました。

それでも夫は、給水車を求めて出かけて行きました。何時間もかかって戻ってきましたが、抱えていたのは、割り当て分の飲み水程度の量の水でした。いわき中がそんな様子でした。広報車が廻ってきて、「外に出ないでください」「外出している人は、家に入る前に着ているものを脱いで、シャワーを浴びてください」とさかんに広報していましたが、シャワーを浴びられるほど水はありませんでした。

 

(2)病院へ

私は、排尿機能障害をもっていますので、毎日、通院して排尿処理とリハビリをしなければなりませんでした。原発事故が起きたときも処理のために病院に行かねばなりません。3月14日、いつものように病院に行きましたが、玄関は閉鎖され、救急口に回されましたが、そこには防護服と防護マスクをした警備員が立ちはだかっていました。結局自宅で待機をするように言われて自宅に戻り、3時間くらい待ちました。再度病院に呼ばれていくと、病院はいつ再開できるかわからないとのことでした。いわきからいつでも避難できるようにと、排尿袋をつけることになりました。

 

3 避難生活を始める

病院で避難を促されたので、私達夫婦と長女親子の4人は、3月14日、いわきから避難することにしました。ただ、長男は仕事があるために避難することができませんでした。

まずは夫の友人を頼って横須賀へ行き、アパートを探しましたがなかなか見つけることができませんでした。結局、3日間、ウィークリーマンションで生活しました。

3月18日には、避難所の東京武道館に行きましたが、すぐには中に入れてもらえませんでした。入口の横に作られたビニールでできた部屋で、防護服と防護マスクの検査員の方から、頭の先から足の先、口の中まで被ばく検査を受けました。

車いすの私にとって、避難所の床で寝起きする生活は大変苦労しました。ですから、洗面所とトイレでの排尿袋の処理のとき以外は、いつも身体を横たえているほかありませんでした。神経内科と泌尿器科の診療に行くにも、救護班の方の手をお借りしなければなりませんでしたので、申し訳ない気持ちで診療を受けました。

入浴も10日に1回くらいしかできませんでした。

ただ、そんな不自由な避難生活ではありましたが、武道館で知り合った方々とは、今でも苦しみを分かち合える仲間となり、家族のように交流を続けています。

 

4 いわきに戻れず家族離ればなれに

いわきに残った長男は、原発事故当時、物流ドライバーをしていましたが、原発事故で物流がストップしたために失業してしまいました。

原発事故前に借りて住んでいた家は、借り上げ住宅に提供されることになったことから賃貸借契約の更新をしていただけず、戻れませんでした。入居予定だった新居も、大家さんの親戚が避難先として使いたいとのことで、断られてしまいました。そのため長男は、住まいを失い、原発事故から4か月くらいの間、車の中で寝泊まりをしていました。

多方で、私と夫と長女親子は、2011年4月23日、ようやく新宿の都営住宅に入れることになりました。ところが、その途端に、長女はひきこもりがちになってしまいました。

長女は避難したことで失業し、2年間、東京での就職先を見つけることができませんでした。また、4人での避難生活はストレスが重なりました。長女との喧嘩も絶えず、私と夫は体重が10キロ減りました。2012年8月まで4人での同居生活を頑張りましたが、ついに限界を迎え、私と夫は長女親子と別居しました。そのため、片時も離れて暮らしたことのない、孫とも別居することになりました。夫にとっては、これが最大のショックだったようです。

いわきに残してきた家財道具も、避難先のアパートには入り切れないので、全て処分しました。思い出に残るものも失いました。

 

5 夫の死

原発事故の年の8月、夫は、今まで味わったことのない倦怠感、脱力感をしきりに訴えるようになりました。私は当初、今思えば気軽にも、単に引っ越しや片付けの疲れが出たのだろうとしか考えていませんでした。

でも、その後も夫は体調の不良を訴えて、病院を3か所まわり、検査を受けました。そして2011年12月、悪性リンパ腫と診断されました。私達の家族はそれまで全員、癌とは無縁でしたので、夫の悪性リンパ腫はとても信じられませんでした。

がんとの闘病生活の中、私と夫は、長女親子と別居することになりましたが、転居先のアパートでは「放射能がしみ込んだごみは集積所に捨てるな」などと言われたり、私たちと同じようにして避難してきた避難者から誹謗中傷を受けたりもしました。転居先でのこうしたできごとが、夫にかなりの精神的な負担となってしまいました。

夫は、最後まで、「絶対病気に勝つ」と気丈に闘い、根気強く、病気と向き合ってきましたが、転居先での精神的な疲労もあり、みるみる内に骨と皮ばかりにやせ細り、2013年11月30日、亡くなりました。避難先で最期を迎えたことは、どんなにか無念だったろうと思います。

 

6 父の死

いわきに一人残してきた私の父も、4年前の2014年8月11日に一人で寂しく亡くなりました。父は、いつも「家族に会いたい、会いたい」「私に最後まで介護してほしかった」と言っていたそうです。その当時、私には、父の葬儀に参列してあげるお金もありませんでした。こんなことになって無念ですしとても悔やしいです。

 

7 いまの私の生活と思い

あちこちで「自主避難」と言われ、何かと差別を受けますが、原発から20キロ圏の人も50キロ圏の人も、なくしたものは皆同じです。

原発事故からもうじき8年となり、今は、帰る故郷だけでなく、一家の柱の夫を亡くしました。家族もバラバラになりました。

いわゆる「区域外避難」だから、生活保障もありません。避難生活中に貯金も使い果たしました。夫が悪性リンパ腫だとわかり、年金はすべて、医療費に消えました。夫の葬儀にもお金がいりました。夫の入院費用は、分割払いにしていただきましたが、返済し終えるまでまだ3年かかります。私は今、夫のいなくなった避難先アパートで独り暮らしをしています。夫の遺族年金で生活していますが、公共料金と食費を支払ったら、お金はなくなってしまいます。

それなのに、2014年、父を亡くしたばかりのころ、東電の方から電話があり、これまで支払猶予だった電気料金をさかのぼって全額支払ってもらうと言われました。東電の料金課の方からは、「電気料金を支払えないときは、電気を止めるか、区役所に相談に行ってください」と言われました。何と心無い、無責任な一言だろうと、憤りを感じました。電気を止められてしまったら、一人暮らしのたった一つの楽しみであるテレビも見られず、私の足である電動車いすの充電もできず、どこにも行けない生活となってしまいます。なぜ私が電気料金すらも滞っていたのかわかりますか?

東京に避難をしてきた数年は、日々の暮らしに必死でした。もうじき避難をして8年です。今は、夜中にふと目を覚ますことが多くなりました。夫も亡くなり、避難先で一人暮らしとなり、年を重ねていく不安から、今は、故郷に帰りたいという思いが日に日に強まります。でも、いわきには、住むところだけでなく、帰れる居場所も失いました。私たち避難者はこれからどうすればよいのでしょうか。

私には、夢も希望もない生活が待ち受けています。今思うことは、こうなってしまったのは、あの福島第一原子力発電所がもたらした無責任な事故の結果にほかならないということです。願いが叶うのなら、家族5人、仲良く、にぎやかだった家庭を元に戻していただきたいと思います。

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<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第4回期日は、5月29日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
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福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第3回期日のご案内

福島原発被害東京訴訟第2陣(3次訴訟)第3回期日(2月6日)の傍聴をお願いします。

★日時:2019年2月6日(水)10時30分開廷
★場所:東京地方裁判所103号法廷
(千代田区霞が関1-1-4 東京メトロ霞が関駅A1出口すぐ)

期日に先駆けて、地裁門前では、9時30分頃から、原告らのスピーチが行われますので、是非、そちらにもご参加ください。

★原告団から
私たち東京訴訟は、皆さまの応援に支えられ、2018年3月の第1陣の判決では、晴れて国と東京電力を断罪する勝訴判決を得ることができました。しかし、その判決の中身は、私たちが納得できるものとはまだまだ遠く、特に損害については、私たちの想いが裁判所に届いていないことを思い知る内容でもありました。今後、ますます想いを強め、司法に、国民に広く訴えていきたいと思っております
そんな中、東京地裁では、昨年7月から第2陣の審理が始まりました。第2陣の原告には、東京在住の避難者だけでなく、福島県内(田村市早稲川地区、中通り地域)の被害住民や、放射能汚染が深刻であるにもかかわらず全く賠償がなされていない栃木県北部(那須地域)の被害住民が共に加わっています。もうすぐあの原発事故から8年が経ちます。私たち原告は、あの日どこにいたのか、どんな仕事をしていたのか、避難したのか、故郷にとどまったのか、それぞれ違いますが、国と東電に原発事故の責任をとらせる、その目標のためにこの裁判を共にたたかっています。
2月6日の期日には、多くの原告が参加します。どうか、傍聴で応援してください。

★報告集会:
時間:裁判終了後(11時ころ)に移動します。
会場:日比谷図書文化館4階スタジオプラス(裁判所近くの日比谷公園内)

★問い合わせ:福島原発被害首都圏弁護団(03-5362-0138 オアシス法律事務所内)

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第2回口頭弁論期日のご報告

去る11月14日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第2回口頭弁論期日が開かれました。

この日は、原告番号A18-5さんの意見陳述が行われました。彼は、平成23年3月11日には18歳でしたが、あれから7年経ち、今は25歳となりました。

彼の口から語られたのは、原発事故によって人生の進路を翻弄された若者の被害でした。

以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。

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1 2011年3月11日に起こった福島第一原子力発電所事故は、7年という月日が経った今もなお、私たち多くの被害者の人生に影響を与え続けています。

今日は、原発事故が変えてしまった私の人生と、私たち家族の現状について、お話をさせてください。

2 私は7年前までは福島県●●市に住んでいました。しかし、原発事故による放射線被ばくのおそれがあったことから、福島を離れ、現在は家族と共に東京で避難生活をしています。

地震直後の情景は今でも鮮明に覚えています。ライフラインは機能せず、お店や道路はめちゃくちゃに壊れ、地元の小学校に避難し夜をしのいだこともありました。

そんな地震の混乱が収まらない中で、衝撃のニュースが流れました。

「福島第一原子力発電所から放射性物質が漏れている」

18歳未満の子ども達を対象に、真っ赤な袋で包装されたヨウ素剤が保健所から配られました。「こんなものを配るなんて、なんだかおかしい。」--そんな風に感じたことを覚えています。

福島第一原子力発電所の事故は連日ニュースで取り上げられ、私も原発の危険性を強く感じました。

原発事故のため、私の両親は当時18歳で高校を卒業したばかりの私や中学を卒業し15歳だった私の妹の健康を心配し、家族で原発から少しでも遠いところへと避難することに決めました。

新潟や関西なども避難先として考えていた中で、両親の友人に被災者の受け入れに関する情報をいただき、東京に避難することとなりました。

東京へ来てからは、区民館の体育館や避難者の受け入れを行ってくださったホテルなどの避難所を転々とした後、原発事故避難者の「みなし仮設住宅」として用意された都営住宅への避難が決まりました。

家具も何もない新しい家で、少しずつ生活を慣らせていく日々でした。

3 当時の私は大学受験生でもありました。

アルバイトをしながら文房具代や参考書代、模試代、予備校の授業費などを貯め、段ボール箱を勉強机の代わりにして受験勉強を行い、ようやくして大学進学の機会を得ました。

その際、大学が実施してくださった被災者免除制度を活用し、私はやっと進学することができました。

念願叶って大学生になった後、私は奨学金を借りながら塾講師、家庭教師、飲食店など3つほどアルバイトを掛け持ちして大学の学費や生活費にあてていました。

両親は原発事故を機に失職をし収入が安定せず、家計を支えるためにも、私は働かなければなりませんでした。

4 ところが、2016年の2月中旬頃、当時私が通っていた大学からある通知が届きました。それは、原発事故など東日本大震災で被災した学生に対し、学費を減免する特別措置を終了する知らせでした。

通知にはこう書いてありました。

「本学では、東日本大震災が発生した平成23年から、被災学生に対して授業料等減免の特別措置を実施してまいりましたが、発災(はっさい)から5年が経過し、国の施策(しさく)や本学の諸事情に鑑(かんが)みまして、今年度をもって特別措置を終了することとなりましたので、お知らせいたします。」「皆様の残りの学生生活が有意義で充実したものとなるよう、心よりお祈り申し上げます。」

私はこの通知を受け、学費の支払いに工面がつかず、2016年3月に大学の中退を余儀なくされました。

5 この大学からの通知から1年後、2017年の3月、追い打ちをかける出来事が起きました。それは 私たち家族が現在住んでいる「みなし仮設住宅」の無償提供を打ち切るというものでした。

一般の都営住宅の入居者として住み続けるためには、申込みが必要であり、「世帯全体の収入が一定以下」という条件が付きました。私には、まだ学生の兄弟がおります。この世帯全体の収入は、たとえ学費を稼ぐためのアルバイト代であったとしても換算されてしまうのです。学ぶことを打ち切られた私と同じ思いを兄弟にはさせたくありません。

私たちは区域外避難者であり、東京電力からの賠償金もわずかしか支払われず、私の家族のように生活に困っている避難世帯が多くあります。原発事故のために故郷を離れることを余儀なくされ、生活を壊されたあげく、避難を続けるために進学を諦めざるを得ない。それが、区域外避難者の実情です。

結局、私たち家族は、家賃の高い民間の賃貸住宅に引っ越すこともできず、都営住宅の入居申し込みもできず、そのまま都営住宅にとどまらざるをえない状態が続いています。

私たち家族にとっては、東京が避難生活の拠点であり、今の自宅が、私たちの大切な家なのです。それにも関わらず、原発事故から避難するための基盤である住宅までも奪われようとしているのです。

私たちは、国などの行政に対して、せめて、みなし仮設住宅の提供を再開・延長するよう求めています、しかし、依然として国などから無視され続けています。私たちは追い詰められています。

7 原発事故にはじまり、激動の日々の中で私は過ごしてきました。その7年の間に一緒に避難してきた祖父は亡くなり、祖母も脳卒中で倒れました。私たちは今後自分たちがどうなるのかについて怯え、振り回されている状況です。

それでも、私たち家族は、今、目の前のやるべきことを行いながら、寄り添い合うようにして力を合わせ、原発事故で破壊された生活を立て直そうと、必死で生きています。

そんな私たちには、夢があります。

早く立派になり、今日に至るまでお世話になった多くの方々に、恩返しをするという夢です。

しかし、積み上げた努力が根元から崩されるようなことがあっては、いつまでも前に進むことができません。

この裁判においては、私たち原発被害者の実情と意見にしっかりと耳を傾けてくださることをお願い申し上げます。

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<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回期日は、来年2月6日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
メール shutokenbengodan@gmail.com
ブログ http://genpatsu-shutoken.com/blog/
フェイスブック https://www.facebook.com/genpatsuhigai.shutoken.bengodan

福島原発被害東京訴訟第2陣(3次訴訟)第2回期日のご案内

日時:2018年11月14日(火)10時30分~
場所:東京地方裁判所103号法廷
(東京都千代田区霞が関1-1-4/東京メトロ丸の内線・日比谷線・千代田線「霞が関駅」A1出口すぐ)

第2陣の裁判には、避難者だけでなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り栃木県北地域)も原告に加わり、原発事故被害の総体を追及するものとなっています。
当日は、原告(区域外避難者の若者)と弁護団による意見陳述があります。
原発事故による放射能の被害を受け、国と東京電力を相手に裁判に立ち上がった原告の皆さんを応援し、国と東電の責任を正しく追及する裁判が行われるよう、支えましょう!多くの皆さまの傍聴をお願いいたします。
法廷終了後、報告集会を行います。こちらにもご参加ください。

<報告集会>
閉廷後(11時ころ)に移動して11時すぎから
弁護士会館(霞が関)12階 第一東京弁護士会講堂
(裁判所庁舎の隣・日比谷公園寄りの建物)

<お問い合わせ>
福島原発被害首都圏弁護団(オアシス法律事務所内)
℡03-5363-0138

<福島原発被害東京訴訟第2陣について>
福島原発被害東京訴訟は,原発事故によって福島から首都圏に避難せざるをえなかった人たちが、2013年3月11日、国と東京電力の責任を追及するために起こしたものです(第1陣)。
第3次提訴以降(第2陣)は、避難者だけではなく、避難こそしなかったものの、事故前とはふるさとでの暮らしのあり方を大きくゆがめられてしまった被害地域住民(福島県田村市、福島県中通り、栃木県北地域)も訴訟に参加し、原告は312名(4次訴訟まで)となっています。
国と東京電力は,一体となって原子力発電事業を推進し,住民の安全よりも経済的利益追求を優先した結果,福島原発事故を発生させるに至りました。
福島原発事故から7年が経過した今でも,十分な賠償は実現されておらず、特に、避難区域外に住んでいた人たちは、事実上、カヤの外に置かれています。
低線量であっても放射線の被ばくの人体に対する影響は否定しがたく、避難区域の内外を問わず、被ばくを避けるために避難することは必要かつ合理的な行動です。また、被害地域住民にとっては、放射性物質によって汚染されてしまった自宅や地域での暮らしの原状回復・生活再建に見合う十分な賠償が必要です。
今年3月の1・2次訴訟の判決で、東京地裁は、国と東京電力の責任を断罪し、原告47人中42人に対する賠償の支払いを命じ、原告が勝訴しました(現在、賠償の増額を求め、東京高等裁判所に控訴中。)。
そして、いよいよ、被害地域住民も原告となった3次訴訟が始まりました。被害地域住民と避難者が共に闘う新しい裁判のスタートです。当日の法廷では、福島県の避難区域外から東京に避難している若者と弁護団が意見陳述を行う予定です。
この裁判を通じて、原発事故による被害の実相を明らかにし,国と東京電力の加害責任を前提とした完全賠償を実現することを目指しています。