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結審期日の意見陳述~その5

去る10月25日に行われた福島原発被害東京訴訟の結審期日。原告2名と弁護団3名の意見陳述が行われました。最後に、福島原発被害首都圏弁護団の共同代表である中川素充弁護士による総括としての意見陳述をご紹介します。

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1 この裁判は,福島第1原発事故について,被告国及び被告東電の法的加害責任の明確化,区域内外や避難者・滞在者を問わず,生活再建にふさわしい完全賠償の実現を求めて,2013年3月11日,3世帯8名の提訴をしました。続けて,同年7月26日に14世帯40名が提訴し,これまで24回の口頭弁論期日及びその後の進行協議期日を経て,本日,17世帯47名の原告について第25回目の期日である結審期日を迎えました。お分かりのように,原告が1名減っています。訴訟中に亡くなりました。
なお,追加提訴もあり,現在約280名が原告となっています。
私たちは,これまでの主張・立証を通じて,被告国及び被告東電の故意・重過失と言うべき法的加害責任,原発事故被害者である原告らの過酷な被害実態を明らかにしてきました。

2 あの福島原発事故が発生してから,6年7ヶ月余の月日が経ちました。
原発事故により,福島第1原発から莫大な放射性物質が環境に放出され,福島県のみならず東北・関東地方を中心に各地が汚染されました。INESで「レベル7」,あのチェルノブイリ事故に匹敵するものです。現在も廃炉の見込みは立っておらず,破壊された福島第1原発から放射性物質の環境への放出は続いています。除染も依然として,不充分なままで,放射性物質による汚染の実態は大きく変わりません。もはや,本件原発事故前の状態に戻すことはもはや不可能であると言っても過言ではない状況です。
これまでの各証拠や3期日に渡り行われた本人尋問,本日も含めた意見陳述などを通じて,被害実態をご理解頂けたかと思います。避難者は,依然として,肉体的・精神的・社会的・経済的に困難な状況で避難生活を送り続けており,その深刻さは日を追うごとに悪化しています。地元に留まっている滞在者も,廃炉の目途が立たない福島第一原発を背にして,24時間365日,放射性物質に汚染された環境での生活を余儀なくされています。
原告らを含め原発事故被害者には,落ち度など何一つありません。原発事故被害者は,突然,絶望のどん底に落とされ,今も苦しみ続けているのです。これは,人生被害そのものです。被害者のなかには,将来を悲観し,自ら命を絶った者もいます。そこまで追い詰められてしまうほどの甚大な被害をこの原発事故はもたらしてしまったのです。
では,こうした被害に対して,被告国や被告東電は,一体何をしてくれたのでしょうか。6年7ヶ月間,まともな施策などありませんでした。被告国は,あたかも「原発事故は収束した」「放射能は安全である」と喧伝し,「福島復興」「福島再生」などと称した帰還政策を強力に進めています。被害者の声を無視した応急仮設住宅の無償提供打ち切りや避難指示の一方的解除などは,その典型例です。
また,被告東電は,自らや同じく加害者が一方的に策定した賠償基準を「被害者」に押しつけています。

3 実際に,この裁判においても,依然として責任を認めず,原告ら被害者を蔑ろにし,切り捨てるかのごとき主張を展開してきました。
そこには,「ふつうの暮らし」を突如奪われた被害者の苦難,悲しみ,不安等に対して,真摯に向き合おうとする姿勢が微塵たりともありません。
しかも,こうした被告らの主張は,大きく誤っています。
例えば,低線量被ばくの問題についてです。本件訴訟の争点である避難の合理性に関わる問題です。
被告らは,低線量被ばくの危険性について,「連名意見書」等を通じて,低線量被ばくの危険性を述べる疫学論文,それを引用・紹介した崎山医学の意見書などを論難しています。
しかし,関係証拠,京都地裁における崎山証人らの証言,これらをまとめた最終準備書面をご覧いただければ分かると思います。こうした批判は,いずれも些末な揚げ足取りで批判に値しないものばかりです。
そもそも,被告らをはじめ低線量被ばくのリスクを過小評価する人たちは,現実に査読を経て公表されている低線量被ばくの危険性を述べる論文が集積され続けているという重要な事実から目を背けています。現実の被害だけでなく,科学者として科学に対する真摯な姿勢,誠実さの欠片もありません。

4 現在,全国で1万人以上もの原発事故被害者が訴訟を提起し,司法による救済を求めています。
それは,加害者主導で進められている「被害救済」が真の被害救済ではないからです。東電への直接請求では,東電基準の賠償基準でしか応じません。原発ADRは,裁定機能がないという欠陥があるため,東電が応じそうな和解内容の提案しかなされません。現に,「東電も受諾するという可能性が高い和解案を出すというのが仕事」などと言ってはばからない仲介委員もいます。
特に,区域外避難者・滞在者に対しては,賠償に値しないお見舞い金程度の支払いしか行なわれていないのです。
そして,全国の大半の集団訴訟において,国を被告としています。それは,国策民営で原子力政策を推進した被告国が自らの責任にあまりにも無自覚で,被害者切り捨ての施策を平然と行なっているからです。
こうした「棄民政策」を改めさせるためには,被告国や被告東電の法的加害責任を明確しなければなりません。そこから真の「福島復興」「福島再生」がはじまります。
この裁判の原告をはじめ全国各地の裁判の原告は,被告国や被告東電を非難し,叩き潰すために裁判をしているのではありません。失われた自分たちの暮らしを取り戻し,ふるさとである福島の復興・再生を切に願っているからこそ,やむにやまれず裁判を起こしているのです。
裁判所におかれては,こうした全国で展開されている裁判の意義,多くの原発事故被害者が司法による救済を求めている事実を重く受け止めほしい。裁判所を含めた私たち司法に課せられた課題です。

5 これまで集団訴訟において,前橋地裁,千葉地裁,福島地裁の3つの判決が出ました。しかし,残念ながら,これらに共通するのは,本気で被害救済を図ろうとする「意気込み」「勇気」が欠けていることです。
前橋地裁,福島地裁は,被告らの法的加害責任を認めました。当然のことです。しかし,千葉地裁は,概ね原告の主張する事実を採用し,予見可能性を認めながらも,突如,コスト論に重きを置いて,結果回避義務・結果回避可能性を消極的に判断しました。しかし,このような原発事故のリスクを上回るコスト論というのは,一体,どこに存在するのですか。抽象的なコスト論に惑わされて,法的加害責任に踏み込む「勇気」がなかったものと言わざるをえません。
また,3つの判決は,被害・損害論について,全体として賠償額が低い。しかも,低線量被ばくのリスクを否定していないにもかかわらず,区域内外に著しく大きな差をつけてしまいました。これは,被害実態を的確に捉えていないし,区域内外で避難生活の過酷さは共通している事実にも真正面から踏み込む「勇気」がなかったものと言わざるをえません。
なかには,加害者である被告東電や被告国が策定した何ら法的拘束力もない東電賠償基準や中間指針を下回るような判断もあります。ここに至っては,司法の機能不全としかいいようがありません。

6 裁判所・裁判官は,「公正・中立」が求められると言われます。
しかし,釈迦に説法ですが,この「公正・中立」は,原告と被告との間をとるということではありません。加害行為に対しては,それを的確に認定し,過酷な被害実態に対しては,被害回復に見合った賠償を命ずることが「公正・中立」なのです。
先例にとらわれるということでもありません。
本件原発事故は,日本の司法がこれまで経験しなかった広範囲で深刻な公害事件ですから。
今,求められているのは,人権の最後の砦である司法に望みを託している被害者の声をきちんと受け止め,人としての良心にしたがって,法曹としての高い専門性を駆使して,「勇気」のある,そして,真っ当な判断をすることではないでしょうか。
私たちは,来年3月16日午後3時,この東京地裁103号法廷にて,水野裁判長,浦上裁判官,仲吉裁判官が絶望の底にいる原告らをはじめ全ての原発事故被害者に希望の光を照らす正義の判決を下すものであると確信しています。

以上