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「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」提出

署名提出2

< 内閣府へ署名を提出するところ >

 

福島原発事故のため、首都圏のみなし応急仮設住宅に避難している私たち避難世帯のグループであり、福島店発被害東京訴訟の原告も入っている「ひなん生活をまもる会」と、同じように京都に避難している避難者と支援者のグループである「うつくしま☆ふくしまin京都」、そして、埼玉県の避難者支援団体である「震災支援ネットワーク埼玉」の3団体は、昨年11月以来、避難区域外からの避難者(区域外避難者)も含めた全ての原発事故避難者に対し、みなし仮設住宅等の避難者向けの住宅を無償で長期間提供すること等を確約・実行することを求め、上記の署名活動を行ってきました。

 

その結果、合計で4万4978筆もの署名が集まり、昨日5月13日に内閣府に提出の運びとなりました。

 

ところが、当初、内閣府は署名の受け取りに関して、「国が要望書を受け取る性質のものではない」とか、「内閣府防災で対応することができない」などと、署名の受け取りに消極的な姿勢を示していました。そのため、署名受渡しの日程調整に手間取りました。

しかし、内閣府は、災害救助法に基づき、被災者の応急救助に関すること等を所管する官庁であり、「国が要望書を受け取る性質のものではない」などという対応は断じて許されるものではありません。

以下で、福島原発被害東京訴訟の原告団長でもあり、「ひなん生活をまもる会」代表の鴨下裕也さんが内閣総理大臣等に宛てた文章を紹介します。

 

内閣総理大臣     安倍  晋三 殿

内閣府特命担当大臣  山谷 えり子 殿

復興大臣       竹下   亘 殿

 

「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」提出にあたって

 

本日、安倍晋三内閣総理大臣及び山谷えり子内閣府特命担当大臣(防災)に宛てて、「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」を提出致します。

福島原発事故のため、首都圏のみなし応急仮設住宅に避難している私たち避難世帯のグループである「ひなん生活をまもる会」と、同じように京都に避難している避難者と支援者のグループである「うつくしま☆ふくしまin京都」、そして、埼玉県の避難者支援団体である「震災支援ネットワーク埼玉」の3団体は、昨年11月以来、避難区域外からの避難者(区域外避難者)も含めた全ての原発事故避難者に対し、みなし仮設住宅等の避難者向けの住宅を無償で長期間提供すること等を確約・実行することを求め、上記の署名活動を行ってきました。その結果、4万4978筆の署名が集まり、本日提出の運びとなりました。

昨年も、「ひなん生活をまもる会」が同様の署名運動を行い、16002筆の署名を提出しました。その後、原発事故避難者の応急仮設住宅の提供期限は、平成28年3月まで延長されました。今年は上記3団体が共同呼びかけ団体となって全国の避難者・支援者・市民の皆さんに署名を呼びかけ、更なる長期の避難用住宅の無償提供を訴えたところ、昨年の2倍をはるかに超える沢山の署名が集まりました。

 

ところが、当初、私たちの側からの署名提出の打診に対して、内閣府の担当官の方は「国が要望書を受け取る性質のものではない」「内閣府防災で対応することができない」などと述べたという話があり、署名受渡しの日程調整に手間取りました。

内閣府は、この要望書の主題である「応急仮設住宅」制度を定めている災害救助法等に基づく「被災者の応急救助に関すること」等を所管する官庁です。仮設住宅の提供期間の定めの大本は、内閣府防災担当が所管する政令である災害救助法施行令3条1項に基づく内閣府告示「災害救助法による救助の程度、方法及び期間並びに実費弁償の基準」であり、内閣総理大臣には基準を変更する権限があります。上記の基準を超える期間等を定める場合、同施行令3条2項に基づく特別基準を設定することになりますが、これには、内閣総理大臣の同意が必要であり、これも内閣府防災担当の所管です。また、災害救助法に基づく救助は、都道府県知事が行うものとはいえ、法定受託事務であり、今回の福島原発事故においても、所管する国の官庁(福島原発事故発生当初は厚生労働省でしたが、現在は内閣府に所管が移っています。)が福島県等の被災自治体や被災者受入れ自治体に対し数多くの通知を出して、事実上の政策決定を行ってきました。

これらの事実に鑑みれば、福島原発事故の被害者が内閣府に対し、現行の住宅政策の抜本的改善を求める本署名「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」を提出するのは当然のことです。

にもかかわらず、内閣府の担当官が「国が要望書を受け取る性質のものではない」「内閣府防災で対応することができない」等と述べたということは極めて残念です。なぜ、このような対応がなされたのか。内閣府は、福島県民をはじめとする原発事故被害者の支援に対して実は消極的なのではないかという疑念を持たざるをえません。もちろん、こうした政策態度は、「被災者の生活を守り支えるための被災者生活支援等施策を推進し、もって被災者の不安の解消及び安定した生活の実現に寄与する」という原発事故子ども被災者支援法1条所定の目的にも反するものだと思います。今後は、このような対応がないようにしていただきたいです。

安倍晋三内閣総理大臣に対しては、上記のような原発事故被害者の疑念を払拭するよう、本要望書に沿った抜本的な住宅支援策の立案を期待します。

 

わたしたちは4年前、突然、福島原発事故に巻き込まれ、避難してきました。放射能汚染による追加被ばくの危険を可能なかぎり避けるため、避難区域の内外を問わず、一日でも長く避難を続けたいという避難者が多いです。来年3月とされている無償の避難用住宅の提供期限は、原発事故被害者の要望とは、かけ離れています。

避難生活にはお金がかかります。避難するのための住宅が有料になってしまったら、避難を続けることが経済的に困難になる世帯が沢山あります。1年ごとの延長では、子どもの中学・高校等の進学先をどこにしたらよいか、悩んでしまうという声もあります。避難住宅の長期的な無償提供が約束されることによって、原発事故避難者は安心して生活することができるようになります。

さらに、他のみなし応急仮設住宅への転居を認めていただければ、プレハブの建設型応急仮設住宅から借上げ住宅などのみなし応急仮設住宅に移ることもできます。家賃負担が生じる災害公営住宅に移らなくても済みます。

また、これから避難したいという方もまだまだいます。こうした新規避難者にみなし応急仮設住宅を提供することも急務です。

こうした原発事故被害者の立場に立った避難者対策を総合的に行うため、新規立法の制定をぜひお願い致します。

 

国には原発事故を引き起こした責任があるはずです。そして、原発事故子ども被災者支援法14条には「施策の具体的な内容に被災者の意見を反映」すると定められています。今こそ、わたしたち避難者の声を政策に反映させるべき時です。

何としても、私たち原発事故避難者の要望を実現していただきたいと思います。

 

平成27年5月13日

 

ひなん生活をまもる会    代 表   鴨 下  祐 也

(連絡先) 〒115-0045 東京都北区赤羽2-62-3 マザーシップ司法書士法人内

福島原発被害東京訴訟・第11回期日のご報告

裁判の報告集会

< 裁判後の報告集会の様子 >

 

5月13日午前10時から、東京地裁103号法廷にて、福島原発被害東京訴訟・第11回期日が行われました。

 

法廷では、当方から、責任論についての国の主張に対する反論である準備書面(28)と、損害論の総論に関する準備書面(29)(原告らの精神的損害について)及びその関連証拠を提出しました。

 

一方、被告の東電からは、原告らの放射線被害に関する主張に対する反論である共通準備書面(7)及び関連証拠が提出されました。

 

その後、原告(原告番号8番さん)の意見陳述と,弁護団の平松真二郎弁護士による意見陳述が行われました。

 

以下で、原告の意見陳述の一部を抜粋して紹介します。

 

「私は今72歳です。2011年3月15日まで福島県田村市に住んでいました。でも故郷は福島ではありません。60歳まで神奈川に住み、東京で消費生活相談員として働いていました。夫は定年後は大地に根ざした暮らしがしたいと考えていました。そこで定年前に田舎暮らしをする土地を探し始め、1994年福島県田村市に9000平方メートルの土地を見つけました。その2年後地元の大工さんに頼んで在来工法の家を建てました。」

 

「1998年にまず夫が、私はその5年後に移住しました。夫婦二人で鍬で原野を開墾して、200坪の畑にしました。近所では牛を飼っていましたので、牛糞と敷き藁を積んで肥料としたものを分けてもらい、林から落ち葉を集めてきて、それも肥料にして畑に入れました。3年ほどすると、いい土になり、化学肥料を使わずともおいしい野菜が取れる様になりました。またその季節に合った野菜を作れば農薬を使わずとも育てられる、寒冷紗という目の細かいネットを使ったり、草を防ぐ防草シートを使ったりすれば、作業が楽になることも分かりました。」

 

「育てていた野菜は、たとえば茄子だけでも7品種でしたから、全部で50品種を超えていました。そのほかに黄色いキウイ、25本のブルーベリー、木立の中では椎茸や舞茸、なめこといった茸を栽培し、ほかに自生してくる山うどや蕗、たらのめ、わさびなどの山菜、栗があり、水がおいしく、まさに自然の恵みに感謝する日々でした。作業場に作った囲炉裏で、取れた野菜や山女を焼き、飲み、しゃべり、楽しい日々でした。夫は2007年に亡くなりましたが、私一人で暮らし続け、2010年にはキウイ39kg、ブルーベリー29kg、大豆16kg、クッキンクトマト53kg、いろいろな茄子120kgなどになり、またブルーベリーやイチゴからジャムを作り、千枚漬やキムチを漬け、大豆からは麹も手作りして味噌を仕込みました。」

 

「しかしこの暮らしは2011年3月11日で一変しました。最初は3キロ圏内の避難指示でしたが、それが10キロ20キロと私の家に近づいてくるのです。とにかく早く原発から遠ざかりたい、しかし高速道路は閉鎖されており、ガソリンも心もとなく、一人で一般道を長時間運転していくことに不安でした。」

 

「どうしようか考えあぐねていたところ、3月14日に電話回線が復旧しました。陸がだめなら空があると思い、福島空港に電話したところ、羽田行きの臨時便があると聞き、それから3時間復旧したパソコンの前に座って、その日はダメでしたが、翌15日の搭乗券を手に入れたのです。午後4時過ぎの便でしたから、15日は昼ごろ出て行けばいいと考えていたのですが、朝8時のニュースで東電の人が「職員は退避しました」と言っていて、私はこれは大変なことが起きたに違いないと思い直ちに犬を連れて車に飛び乗りました。国道288号線はガソリンを求める車で渋滞また道も分からず迷いましたが、なんとか昼ごろには空港にたどり着きました。羽田には長男が迎えに来てくれ、9時過ぎに都内の長男宅に着きました。東京都が用意してくれた被災者用住宅に入れることになったのは4月1日でした。」

 

「私の住んでいた地域は原発から30.5キロのところです。4月半ばになって田村市が詳細な地図を入手したところ20キロ30キロの円を描く円心がズレていたことが分かり、同じ大字の一部が30キロ圏内に入っていたことから、大字全体が緊急時避難準備区域に指定されました。これは9月には解除されています。

翌12年5月に校正されたサーベイメーターを借りて福島の家や敷地の放射線量を計りました。家の中は1m高さで1時間あたりほぼ0.4μSvだったのですが、二階の天井の下にサーベイメーターの検知部分を近づけると1時間あたり0.71μSvもありました。敷地ではケヤキの下が最も高く1時間あたり3.80μSv畑は大体1μSv前後でした。」

「帰れといわれてもこの砂だらけの畑に戻る気にはなりません。除染をしたからといって元の畑に戻ったわけではありません。年月をかけ豊かな土を作ったのに、これから有機栽培を再開するためには、山から落ち葉を集めてくるわけにはいかないし、近所から牛糞をもらってくるわけにもいかないでしょう。砂だらけの畑では前のような農作物を作れません。土も買わなくてはいけないでしょう。またまた長い年月をかけなくてはならないでしょうし、こういう畑の作物を喜んでくれるとは、とても思えません。

72歳の私がなぜそんな苦労をしなければならないのでしょうか?

夫婦二人の苦労を一度の事故で台無しにされ、孫をこの地で遊ばせる楽しみも奪われてしまいました。

私は被害者です。被害者がいて加害者がいないなどということはありえません。私のような被害にほかの誰かがあわないためにも、責任はきちんととって頂きたい。

国や東電に私の被害の救済を求めます。」

 

 

 

原告の意見陳述が終わると傍聴席から自然に拍手が起きました。

法廷が終了すると、近くの日比谷図書会館で報告集会が行われ、弁護団から法廷の説明と、参加者からの発言がありました。

今後の予定は,
2015年 7月15日  10時~ 東京地裁101号法廷
2015年 9月18日  10時~ 東京地裁101号法廷
2015年11月11日  10時~ 東京地裁103号法廷

です。傍聴をよろしくお願いします。