カテゴリー別アーカイブ: 原告の声

福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟第3回口頭弁論期日のご報告

去る2月6日、東京地裁で福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第3回口頭弁論期日が開かれました。

この日は、福島原発事故後に福島県いわき市から東京に避難し、現在まで約8年間避難生活をしている原告番号A7さんの意見陳述が行われました。

以下で、その意見陳述の内容をご紹介します。

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1 原発事故が起きるまで

私は、昭和21年に福島県石城郡小名浜町に生まれました。石城郡というのは、今のいわき市です。その後もいわき市で育ち、夫と結婚しました。長男、長女の2人の子どもに恵まれ、20年間くらい、東京で暮らしたこともありましたが、昭和63年ころにはいわき市に戻り、2011年3月11日の原発事故が起きたときは、夫、長女と長女の子ども、長男の5人で暮らしていました。

私は原発事故の1年半前に、脊髄梗塞にかかり、両足麻痺の後遺症で車いす生活となりました。3年半にわたる両親の介護と看病の末の疲労が原因でした。この病気で排尿機能障害も併発し、管を通して排尿をする生活でした。

2011年3月初め、そんな車いす生活の私のために、私の家族は、車いすでも生活しやすいようにと引っ越しを決め、転居先の大家さんにお願いして新居をバリヤフリーに改装させていただいたところでした。大家さんから新居の鍵も受取り、これからはやっと車いすでも住みやすい家に住める、願ったり叶ったりで、家族みんなで、3月末の引っ越しを心待ちにしていました。

 

2 原発事故が起きた

(1)町が静まり返った

でも、そんな矢先に東日本大震災が起こり、福島第1原発が水素爆発を起こしました。

「窓を開けないでください」「換気扇にはガムテープで目張りをしてください」と、あちこちで言われました。

3月14日の午前中には、2度目の水素爆発が起こり、その様子がテレビに映し出されていました。

3月15日、いわき市役所の合同庁舎の空間放射線量は、1時間あたり23.72マイクロシーベルトと報道されていました。

町中はシーンと静まり返り、いわき中の空気が黄色く淀んだように見えました。時間が止まったかのように、辺り一面、何ともいえない重苦しい気配が漂っていました。

それでも夫は、給水車を求めて出かけて行きました。何時間もかかって戻ってきましたが、抱えていたのは、割り当て分の飲み水程度の量の水でした。いわき中がそんな様子でした。広報車が廻ってきて、「外に出ないでください」「外出している人は、家に入る前に着ているものを脱いで、シャワーを浴びてください」とさかんに広報していましたが、シャワーを浴びられるほど水はありませんでした。

 

(2)病院へ

私は、排尿機能障害をもっていますので、毎日、通院して排尿処理とリハビリをしなければなりませんでした。原発事故が起きたときも処理のために病院に行かねばなりません。3月14日、いつものように病院に行きましたが、玄関は閉鎖され、救急口に回されましたが、そこには防護服と防護マスクをした警備員が立ちはだかっていました。結局自宅で待機をするように言われて自宅に戻り、3時間くらい待ちました。再度病院に呼ばれていくと、病院はいつ再開できるかわからないとのことでした。いわきからいつでも避難できるようにと、排尿袋をつけることになりました。

 

3 避難生活を始める

病院で避難を促されたので、私達夫婦と長女親子の4人は、3月14日、いわきから避難することにしました。ただ、長男は仕事があるために避難することができませんでした。

まずは夫の友人を頼って横須賀へ行き、アパートを探しましたがなかなか見つけることができませんでした。結局、3日間、ウィークリーマンションで生活しました。

3月18日には、避難所の東京武道館に行きましたが、すぐには中に入れてもらえませんでした。入口の横に作られたビニールでできた部屋で、防護服と防護マスクの検査員の方から、頭の先から足の先、口の中まで被ばく検査を受けました。

車いすの私にとって、避難所の床で寝起きする生活は大変苦労しました。ですから、洗面所とトイレでの排尿袋の処理のとき以外は、いつも身体を横たえているほかありませんでした。神経内科と泌尿器科の診療に行くにも、救護班の方の手をお借りしなければなりませんでしたので、申し訳ない気持ちで診療を受けました。

入浴も10日に1回くらいしかできませんでした。

ただ、そんな不自由な避難生活ではありましたが、武道館で知り合った方々とは、今でも苦しみを分かち合える仲間となり、家族のように交流を続けています。

 

4 いわきに戻れず家族離ればなれに

いわきに残った長男は、原発事故当時、物流ドライバーをしていましたが、原発事故で物流がストップしたために失業してしまいました。

原発事故前に借りて住んでいた家は、借り上げ住宅に提供されることになったことから賃貸借契約の更新をしていただけず、戻れませんでした。入居予定だった新居も、大家さんの親戚が避難先として使いたいとのことで、断られてしまいました。そのため長男は、住まいを失い、原発事故から4か月くらいの間、車の中で寝泊まりをしていました。

多方で、私と夫と長女親子は、2011年4月23日、ようやく新宿の都営住宅に入れることになりました。ところが、その途端に、長女はひきこもりがちになってしまいました。

長女は避難したことで失業し、2年間、東京での就職先を見つけることができませんでした。また、4人での避難生活はストレスが重なりました。長女との喧嘩も絶えず、私と夫は体重が10キロ減りました。2012年8月まで4人での同居生活を頑張りましたが、ついに限界を迎え、私と夫は長女親子と別居しました。そのため、片時も離れて暮らしたことのない、孫とも別居することになりました。夫にとっては、これが最大のショックだったようです。

いわきに残してきた家財道具も、避難先のアパートには入り切れないので、全て処分しました。思い出に残るものも失いました。

 

5 夫の死

原発事故の年の8月、夫は、今まで味わったことのない倦怠感、脱力感をしきりに訴えるようになりました。私は当初、今思えば気軽にも、単に引っ越しや片付けの疲れが出たのだろうとしか考えていませんでした。

でも、その後も夫は体調の不良を訴えて、病院を3か所まわり、検査を受けました。そして2011年12月、悪性リンパ腫と診断されました。私達の家族はそれまで全員、癌とは無縁でしたので、夫の悪性リンパ腫はとても信じられませんでした。

がんとの闘病生活の中、私と夫は、長女親子と別居することになりましたが、転居先のアパートでは「放射能がしみ込んだごみは集積所に捨てるな」などと言われたり、私たちと同じようにして避難してきた避難者から誹謗中傷を受けたりもしました。転居先でのこうしたできごとが、夫にかなりの精神的な負担となってしまいました。

夫は、最後まで、「絶対病気に勝つ」と気丈に闘い、根気強く、病気と向き合ってきましたが、転居先での精神的な疲労もあり、みるみる内に骨と皮ばかりにやせ細り、2013年11月30日、亡くなりました。避難先で最期を迎えたことは、どんなにか無念だったろうと思います。

 

6 父の死

いわきに一人残してきた私の父も、4年前の2014年8月11日に一人で寂しく亡くなりました。父は、いつも「家族に会いたい、会いたい」「私に最後まで介護してほしかった」と言っていたそうです。その当時、私には、父の葬儀に参列してあげるお金もありませんでした。こんなことになって無念ですしとても悔やしいです。

 

7 いまの私の生活と思い

あちこちで「自主避難」と言われ、何かと差別を受けますが、原発から20キロ圏の人も50キロ圏の人も、なくしたものは皆同じです。

原発事故からもうじき8年となり、今は、帰る故郷だけでなく、一家の柱の夫を亡くしました。家族もバラバラになりました。

いわゆる「区域外避難」だから、生活保障もありません。避難生活中に貯金も使い果たしました。夫が悪性リンパ腫だとわかり、年金はすべて、医療費に消えました。夫の葬儀にもお金がいりました。夫の入院費用は、分割払いにしていただきましたが、返済し終えるまでまだ3年かかります。私は今、夫のいなくなった避難先アパートで独り暮らしをしています。夫の遺族年金で生活していますが、公共料金と食費を支払ったら、お金はなくなってしまいます。

それなのに、2014年、父を亡くしたばかりのころ、東電の方から電話があり、これまで支払猶予だった電気料金をさかのぼって全額支払ってもらうと言われました。東電の料金課の方からは、「電気料金を支払えないときは、電気を止めるか、区役所に相談に行ってください」と言われました。何と心無い、無責任な一言だろうと、憤りを感じました。電気を止められてしまったら、一人暮らしのたった一つの楽しみであるテレビも見られず、私の足である電動車いすの充電もできず、どこにも行けない生活となってしまいます。なぜ私が電気料金すらも滞っていたのかわかりますか?

東京に避難をしてきた数年は、日々の暮らしに必死でした。もうじき避難をして8年です。今は、夜中にふと目を覚ますことが多くなりました。夫も亡くなり、避難先で一人暮らしとなり、年を重ねていく不安から、今は、故郷に帰りたいという思いが日に日に強まります。でも、いわきには、住むところだけでなく、帰れる居場所も失いました。私たち避難者はこれからどうすればよいのでしょうか。

私には、夢も希望もない生活が待ち受けています。今思うことは、こうなってしまったのは、あの福島第一原子力発電所がもたらした無責任な事故の結果にほかならないということです。願いが叶うのなら、家族5人、仲良く、にぎやかだった家庭を元に戻していただきたいと思います。

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<次回の裁判期日について>

この福島原発被害東京訴訟・第2陣訴訟の第4回期日は、5月29日(水)午前10時30分から、同じく東京地裁1階の103号法廷で開催される予定です。

是非、傍聴のご支援をお願いします。

 

▽問い合わせ先=〒160-0022 東京都新宿区新宿1丁目19番7号 新花ビル6階 オアシス法律事務所内 福島原発被害首都圏弁護団/電話 03-5363-0138 /FAX 03-5363-0139
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福島原発被害東京訴訟・第22回期日のご報告

去る3月1日午前10時から、東京地方裁判所103号法廷にて、福島原発被害東京訴訟第22回期日が開かれました。

この日は、前々回期日(2016年11月9日の第20回期日)及び前回期日(2017年1月11日の第21回期日)に引き続き、第3回目の原告本人尋問が行われました。

この日は合計5名の原告の方(原告番号2-1、16-1、3、8、15-1番の原告)が法廷に立ち、それぞれの被害を訴えました。

この日に法廷に立った原告の方は、ほとんどが原発事故の避難指示区域外からの避難者(いわゆる「自主的避難者」)です。避難者の方々は、放射線被ばくから逃れるために、東京都内に避難している方々です。東京電力からの賠償もほとんど受けられていない中、皆さんは長引く避難生活の中で、それぞれ大変なご苦労をされています。

原告番号2-1の方は、子どもが避難先の公立小学校で、同級生から「放射能バンバンバン」などとからかわれたことがきっかけで一時不登校になり、小学校の転校を余儀なくされたという被害を訴えました。
原告番号16-1の方は、妊娠中に本件原発事故に遭い、福島市から東京に避難しました。放射線被ばくによる健康影響への不安などを訴えました。
原告番号3の方は、故郷の福島が大好きでしたが、原発事故や放射能の恐怖から避難せざるを得なくなり、充実していた福島での生活や人間関係を犠牲にせざるを得なかった被害を訴えました。
原告番号8の方は、もともと自然豊かな福島で暮らしたいとの思いから福島に移住し、有機農法で野菜などを育てながらの悠々自適な暮らしをしていましたが、原発事故によって避難を余儀なくされ、そうした充実した自然とともにある暮らしが奪われた被害を訴えました。
原告番号15-1の方は、避難先の東京で、実際には東電からほとんど賠償を受けていないにもかかわらず、周囲の人たちから「お金をいっぱいもらえていいね。」などと言われ、福島県からの避難者であることに対する世間の偏見にさらされている辛さなどの被害を訴えました。

これらの原告らの切実な被害の訴えに対して、今回も被告東電や被告国からの反対尋問は、相変わらず原告の方々の揚げ足取りのような質問や、趣旨の不明な稚拙な質問が多く、不当なものでした。しかし、それにもかかわらず、今回の5名の原告の方々も、みな堂々と発言され、すばらしい尋問でした。

さらに、法廷の終了後は、隣の弁護士会館にて報告集会も行われました。

次回期日は5月17日(水)午前10時からで、場所は同じく東京地裁1階103号法廷にて行われます。次回は2人にの専門家証人の尋問(主尋問)が行われる予定です。
まず1人目は、被告東京電力や被告国の原発事故に対する法的責任を明らかにするため(責任論)の専門家で、株式会社日本機能安全の取締役で失敗学会の理事の吉岡律夫さんです。吉岡さんは、過去に東芝の原子力事業部で原子炉の設計や安全解析等に従事していた経験があります。吉岡さんからは、本件原発事故が発生する前に、全電源喪失に対する対策をきちんととっていれば、原発事故を防ぐことができたこと(結果回避可能性)などについて証言していただく予定です。
もう1人は、本件原発事故によって原告らが被った損害(損害論)を明らかにするための専門家で、早稲田大学人間科学学術院教授で医師の辻内琢也さんです。辻内さんは、本件原発事故による避難者等を対象とした大規模なアンケート調査を行い、避難者、とくに区域外避難者が被っている多大な精神的苦痛について分析・研究されています。辻内さんからは、本件原発事故による避難生活によって原告らが被っている様々な精神的苦痛について証言していただく予定です。

裁判はいよいよ正念場を迎えています。是非次回以降も法廷の傍聴をよろしくお願いします!

福島原発被害東京訴訟・第21回期日のご報告

第21回期日

去る1月11日午前10時から、東京地方裁判所103号法廷にて、福島原発被害東京訴訟第21回期日が開かれました。

この日は、前回期日(2016年11月9日の第20回期日)に引き続き、第2回目の原告本人尋問が行われました。

合計で6名の原告の方(原告番号4-1、9-1、10-1、11、12-1、17-1番の原告)が法廷に立ち、それぞれの被害を訴えました。

この日に法廷に立った原告の方は、いずれも原発事故の避難指示区域外からの避難者(いわゆる「自主的避難者」)です。避難者の方々は、放射線被ばくから逃れるために、東京都内に避難している方々です。東京電力からの賠償もほとんど受けられていない中、皆さんは長引く避難生活の中で、それぞれ大変なご苦労をされています。

原告番号4-1の方は、子どもが避難先の公立小学校で、同級生に階段から突き落とされたり、お金をとられたりする凄惨ないじめに遭っている被害などを訴えました。
原告番号9-1の方は、もともと自然豊かな地域での大家族での生活を夢見て福島に移住したものの、原発事故による避難によってそうした夢や人生設計が大きく狂わされてしまった被害を訴えました。
原告番号10-1の方は、原発事故で母子避難となり、夫と離れ離れの生活になる中で、ストレスなどから子どもに当たってしまったことなどを涙ながらに訴えました。
原告番号12-1の方は、福島で独立開業した工務店が、原発事故によって廃業を余儀なくされ、仕事のやりがいを失った被害などを訴えました。
原告番号17-1の方は、子どもが甲状腺検査で異常を指摘されたり、頻繁に鼻血を出したりする症状についての不安などについて訴えました。

これらの原告らの切実な被害の訴えに対して、今回も被告東電や被告国からの反対尋問は、相変わらず原告の方々の揚げ足取りのような質問や、趣旨の不明な稚拙な質問が多く、不当なものでした。しかし、それにもかかわらず、今回の6名の原告の方々も、みな堂々と発言され、すばらしい尋問でした。

さらに、法廷の終了後は、隣の弁護士会館にて報告集会も行われました。

次回期日は3月1日(水)午前10時からで、場所は東京地裁1階103号法廷で、第3回目の原告本人尋問が行われます。

裁判はいよいよ正念場を迎えています。それぞれ原告の方々は、勇気を振り絞って法廷に立ちます。こうした原告らを応援するためにも、是非次回以降も法廷の傍聴をよろしくお願いします!

 

福島原発被害東京訴訟・第20回期日のご報告

去る11月9日午前10時から、東京地方裁判所103号法廷にて、福島原発被害東京訴訟第20回期日が開かれました。

この日は、午前10時から午後4時30分まで、原告本人尋問が行われ、合計で6名の原告の方(原告団長の鴨下裕也さん、原告番号1-2、14-1、13-1、6-1、7-1)が法廷に立ち、それぞれの被害を訴えました。

この日に法廷に立った原告の方は、いずれも原発事故の避難指示区域外からの避難者(いわゆる「自主的避難者」)及び避難区域外の地域の滞在者です。避難者の方々は、放射線被ばくから逃れるために、東京都内に避難している方々です。東京電力からの賠償もほとんど受けられていない中、皆さんは長引く避難生活の中で、それぞれ大変なご苦労をされています。

それに対して、被告東電や被告国から反対尋問が行われました。ところが、これらの被告らの反対尋問は、いずれも原告の方々の揚げ足取りのような質問や、謝った事実を前提にして質問するいわゆる「誤導尋問」が多く、弁護団の山川幸生弁護士をはじめ、弁護団は即座に異議を出して対抗しました。また、こうした被告側の質問に対しては、裁判長からも「聞き方を工夫して下さい。」などと何度も注意がなされていました。

数々の被告らの不当な反対尋問にもかかわらず、6名の原告の方々は、みな堂々と発言され、すばらしい尋問でした。傍聴席も満席で、原告の発言に対して傍聴席から度々拍手が鳴り、裁判長がやむなく制止する場面もありました。

さらに、法廷の終了後は、隣の弁護士会館にて報告集会も行われました。

次回期日は1月11日(水)午前10時から、次々回期日は3月1日(水)午前10時からで、場所は東京地裁1階103号法廷で、いずれも今回と同じく原告本人尋問が行われます。

裁判はいよいよ正念場を迎えています。それぞれ原告の方々は、勇気を振り絞って法廷に立ちます。こうした原告らを応援するためにも、是非次回以降も法廷の傍聴をよろしくお願いします!

6.9「避難用住宅の無償提供の打ち切りに反対し、撤回を求める院内集会」のご報告

鴨下代表挨拶

去る6月9日、参議院議員会館にて、「避難用住宅の無償提供の打ち切りに反対し、撤回を求める院内集会」が開催されました。

これは、福島原発事故によって主に首都圏に避難している避難者の団体である「ひなん生活をまもる会」(http://hinamamo.jimdo.com/)の主宰によって行われたものです(冒頭の写真は、「ひなん生活をまもる会の鴨下裕也代表の挨拶)。

今、原発事故の避難者は全国で約12万人いるといわれていますが、こうした避難者に対して国が強行に帰還を促す帰還政策の一環として、避難者用住宅の無償提供措置が打ち切られようとしています。

そこで、危機感を抱いた避難者たちは、この国による帰還政策に反旗をひるがえし、立ち上がりました。

今回の院内集会は、急遽タイトな日程に中で決まった企画であり、参加者を集められるかどうか、直前まで不安がありました。

ところが、ふたを開けてみると、なんと当日は参議院議員会館の約100名の部屋に、約170名以上の参加者が駆けつけ、部屋が超満員の状態となりました。

そして、北海道から大阪まで全国9都道府県の原発事故避難者がこの集会に参加しました。

そのうち、避難者16人(うち1人は井戸川克隆・前双葉町長)が登壇して切実な避難生活の現状を訴え、来場できなかった避難者のメッセージも多数代読されました。

また、菅直人元首相、森まさこ議員(自民党)、荒井聰議員(民主党)、福島瑞穂議員(社民党)、吉良よし子議員(共産党)、山本太郎議員(生活の党と山本太郎となかまたち)など多数の国会議員も集会に駆けつけ、発言を行いました。

時間も、予定の2時間を大幅にオーバーし、「打ち切り阻止」へ向けて大いに盛り上がって閉幕しました。

「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」提出

署名提出2

< 内閣府へ署名を提出するところ >

 

福島原発事故のため、首都圏のみなし応急仮設住宅に避難している私たち避難世帯のグループであり、福島店発被害東京訴訟の原告も入っている「ひなん生活をまもる会」と、同じように京都に避難している避難者と支援者のグループである「うつくしま☆ふくしまin京都」、そして、埼玉県の避難者支援団体である「震災支援ネットワーク埼玉」の3団体は、昨年11月以来、避難区域外からの避難者(区域外避難者)も含めた全ての原発事故避難者に対し、みなし仮設住宅等の避難者向けの住宅を無償で長期間提供すること等を確約・実行することを求め、上記の署名活動を行ってきました。

 

その結果、合計で4万4978筆もの署名が集まり、昨日5月13日に内閣府に提出の運びとなりました。

 

ところが、当初、内閣府は署名の受け取りに関して、「国が要望書を受け取る性質のものではない」とか、「内閣府防災で対応することができない」などと、署名の受け取りに消極的な姿勢を示していました。そのため、署名受渡しの日程調整に手間取りました。

しかし、内閣府は、災害救助法に基づき、被災者の応急救助に関すること等を所管する官庁であり、「国が要望書を受け取る性質のものではない」などという対応は断じて許されるものではありません。

以下で、福島原発被害東京訴訟の原告団長でもあり、「ひなん生活をまもる会」代表の鴨下裕也さんが内閣総理大臣等に宛てた文章を紹介します。

 

内閣総理大臣     安倍  晋三 殿

内閣府特命担当大臣  山谷 えり子 殿

復興大臣       竹下   亘 殿

 

「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」提出にあたって

 

本日、安倍晋三内閣総理大臣及び山谷えり子内閣府特命担当大臣(防災)に宛てて、「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」を提出致します。

福島原発事故のため、首都圏のみなし応急仮設住宅に避難している私たち避難世帯のグループである「ひなん生活をまもる会」と、同じように京都に避難している避難者と支援者のグループである「うつくしま☆ふくしまin京都」、そして、埼玉県の避難者支援団体である「震災支援ネットワーク埼玉」の3団体は、昨年11月以来、避難区域外からの避難者(区域外避難者)も含めた全ての原発事故避難者に対し、みなし仮設住宅等の避難者向けの住宅を無償で長期間提供すること等を確約・実行することを求め、上記の署名活動を行ってきました。その結果、4万4978筆の署名が集まり、本日提出の運びとなりました。

昨年も、「ひなん生活をまもる会」が同様の署名運動を行い、16002筆の署名を提出しました。その後、原発事故避難者の応急仮設住宅の提供期限は、平成28年3月まで延長されました。今年は上記3団体が共同呼びかけ団体となって全国の避難者・支援者・市民の皆さんに署名を呼びかけ、更なる長期の避難用住宅の無償提供を訴えたところ、昨年の2倍をはるかに超える沢山の署名が集まりました。

 

ところが、当初、私たちの側からの署名提出の打診に対して、内閣府の担当官の方は「国が要望書を受け取る性質のものではない」「内閣府防災で対応することができない」などと述べたという話があり、署名受渡しの日程調整に手間取りました。

内閣府は、この要望書の主題である「応急仮設住宅」制度を定めている災害救助法等に基づく「被災者の応急救助に関すること」等を所管する官庁です。仮設住宅の提供期間の定めの大本は、内閣府防災担当が所管する政令である災害救助法施行令3条1項に基づく内閣府告示「災害救助法による救助の程度、方法及び期間並びに実費弁償の基準」であり、内閣総理大臣には基準を変更する権限があります。上記の基準を超える期間等を定める場合、同施行令3条2項に基づく特別基準を設定することになりますが、これには、内閣総理大臣の同意が必要であり、これも内閣府防災担当の所管です。また、災害救助法に基づく救助は、都道府県知事が行うものとはいえ、法定受託事務であり、今回の福島原発事故においても、所管する国の官庁(福島原発事故発生当初は厚生労働省でしたが、現在は内閣府に所管が移っています。)が福島県等の被災自治体や被災者受入れ自治体に対し数多くの通知を出して、事実上の政策決定を行ってきました。

これらの事実に鑑みれば、福島原発事故の被害者が内閣府に対し、現行の住宅政策の抜本的改善を求める本署名「避難用住宅の無償提供期間の長期延長を求める署名」を提出するのは当然のことです。

にもかかわらず、内閣府の担当官が「国が要望書を受け取る性質のものではない」「内閣府防災で対応することができない」等と述べたということは極めて残念です。なぜ、このような対応がなされたのか。内閣府は、福島県民をはじめとする原発事故被害者の支援に対して実は消極的なのではないかという疑念を持たざるをえません。もちろん、こうした政策態度は、「被災者の生活を守り支えるための被災者生活支援等施策を推進し、もって被災者の不安の解消及び安定した生活の実現に寄与する」という原発事故子ども被災者支援法1条所定の目的にも反するものだと思います。今後は、このような対応がないようにしていただきたいです。

安倍晋三内閣総理大臣に対しては、上記のような原発事故被害者の疑念を払拭するよう、本要望書に沿った抜本的な住宅支援策の立案を期待します。

 

わたしたちは4年前、突然、福島原発事故に巻き込まれ、避難してきました。放射能汚染による追加被ばくの危険を可能なかぎり避けるため、避難区域の内外を問わず、一日でも長く避難を続けたいという避難者が多いです。来年3月とされている無償の避難用住宅の提供期限は、原発事故被害者の要望とは、かけ離れています。

避難生活にはお金がかかります。避難するのための住宅が有料になってしまったら、避難を続けることが経済的に困難になる世帯が沢山あります。1年ごとの延長では、子どもの中学・高校等の進学先をどこにしたらよいか、悩んでしまうという声もあります。避難住宅の長期的な無償提供が約束されることによって、原発事故避難者は安心して生活することができるようになります。

さらに、他のみなし応急仮設住宅への転居を認めていただければ、プレハブの建設型応急仮設住宅から借上げ住宅などのみなし応急仮設住宅に移ることもできます。家賃負担が生じる災害公営住宅に移らなくても済みます。

また、これから避難したいという方もまだまだいます。こうした新規避難者にみなし応急仮設住宅を提供することも急務です。

こうした原発事故被害者の立場に立った避難者対策を総合的に行うため、新規立法の制定をぜひお願い致します。

 

国には原発事故を引き起こした責任があるはずです。そして、原発事故子ども被災者支援法14条には「施策の具体的な内容に被災者の意見を反映」すると定められています。今こそ、わたしたち避難者の声を政策に反映させるべき時です。

何としても、私たち原発事故避難者の要望を実現していただきたいと思います。

 

平成27年5月13日

 

ひなん生活をまもる会    代 表   鴨 下  祐 也

(連絡先) 〒115-0045 東京都北区赤羽2-62-3 マザーシップ司法書士法人内

福島原発被害東京訴訟・第6回期日の報告

5月28日に福島原発被害東京訴訟の第6回期日が行われました。

法廷では,当方から,
準備書面(13)貞観津波についての知見の蓄積と進展
準備書面(14)シビアアクシデント対策の必要性と被告国による対策の先送り
準備書面(15)被告国の規制権限の不行使の違法に関する原告らの主張の整理と被告らの過失(予見可能性の対象及び程度)について
準備書面(16)低線量被曝と避難の合理性について(その2)
準備書面(17)本件事故による放射能汚染の概況-その1
と関係証拠を提出しました。

また,期日間で東電と電事連に対する文書送付嘱託が採用となりましたが,いずれも嘱託に応じられないとの回答でした。理由は,従来の主張の繰り返しで,全く理由になっていないものでした。
そのため法廷では,当方(主に当職)から強く抗議をしました。今後,強制力のある文書提出命令を申し立てることを検討しています。この問題については,別途,ブログ記事を書きます。

その後,原告(原告番号10-1さん)の意見陳述と弁護団の平松真二郎弁護士の意見陳述が行われました。

原告の意見陳述では,
「・・・夫に会えるのは,1か月に2度ほどです。夫は,仕事が終わると,高速道路に乗って,東京に着くのはいつも深夜です。そして,翌々日の午前中には,いわきに帰って夜勤をしなければなりません。
ふだん夫のいない生活が続き,4歳になった娘は「パパは?」と私に聞いてきます。「お仕事なんだよ。」と答えますが,「なんで?」と納得しないことも多くなりました。
私は,いつも,こう娘に言い聞かせます。「みんなで楽しく住んでいた福島で、とても大きな事故があったの。その事故で,とっても怖いものがいっぱいあったから,あなたを守るためにパパとママは離れて暮らしてるんだよ。パパもママもあなたが大事だからね。」。そう言うと,娘は「パパがお仕事行って寂しいけど,頑張るね! だって,パパ,頑張ってるんだもん。」と言います。
でも,東京に来た夫が福島に帰るとき,何回かに一度は,娘が「パパと離れたくない…。パパと一緒がいい。パパとママとずーっと一緒にいたい。だって大好きなんだもん。」と泣いて,夫にすがります。私は,夫から娘を引き離して,夫をいわきに戻します。ですが,幸せな時間を過ごした後,かわいい娘と引き裂かれる夫の気持ちを思うと,いつも涙が出てきます。
夫は,「初めての子どもなのに,なぜ成長していく様子をすぐそばで見られないんだ。おれは『おかえり!』って,家で迎えて欲しかった。どんなに仕事で疲れても,家族が一緒にいれば休まるのに…。」と言います。・・・」
とこれまでの普通の生活を奪われた悲しみ,避難を決意するに際しての家族の苦悩,見えない将来への不安,国・東電に対する怒りなど,心からの訴えでした。意見陳述が終わると傍聴席から自然に拍手が起きました。

その後,別室で進行協議が行われ,次回までに国の認否,反論が出ることとなりました。また,東電については,最初,責任論に関しては,関係ないと言って消極的でしたが,裁判所からも促されて,基本的な事実関係の主張及び過失についての認否・反論をすることになりました。

今後の予定は,
2014年 8月28日  10時
2014年10月29日  10時
2015年 1月28日  13時10分
2015年 3月25日  10時
で,いずれも東京地方裁判所103号法廷です。

<期日後の報告集会>

第6回期日後報告集会(20140528)