本日午前10時から福島原発被害東京訴訟の第1回期日が行われました。朝から雨が降っているなか,どれだけの方がくるか心配でしたが,多くの支援者,各地の弁護団などが集まり,バーの中も傍聴席も,ほぼ満席となりました。
法廷では,まず,原告の訴状の陳述,国及び東京電力の答弁書の陳述がなされました(ちなみに,「陳述」と言っても全部読み上げるのではなく,提出することで「陳述」した扱いになります。)。
国も東京電力,それぞれの責任について争う姿勢を示しています。
国は,具体的にどう争うのか明確にしていません。
東京電力は,地震や津波について予測不可能であったなどとして,過失などはなかったと主張しています。
このような甚大な事故を引き起こしながら,このような無自覚,無責任な応答しかしない東京電力・国の姿勢は,到底許されるものではありません。(なお,東電は,原賠法に基づき,原子力損害賠償紛争審査会の定める指針に従って賠償する姿勢は示しています。しかし,この中間指針というのは,全く法規範性もないし,その水準としても被害者の生活再建に資する内容ではありません。特に,区域外避難者にとっては,雀の涙程度の賠償しか応じないということを示しているものです。)
その後,原告である鴨下祐也さんの意見陳述がなされました。
鴨下さんは,子どもたちを避難させることを決意した経緯,二重生活の困難性,地元を離れることを決意する経緯,奪われた生活などを訥々と,時には嗚咽をこらえ語っていました。
「余震が続き、ろうそくの明かりで荷造りをしたあの日。車に積める荷物も限られ、息子たちは、3つしか持たせてやれなかったおもちゃを抱きしめて、生まれ育った家を離れ、以来、一度も戻ることなく、2年3か月の避難生活を続けています。」「そんな私の苦労を知っていたのか、息子たちは、私の前では決して涙を見せませんでした。」「当時8歳だった長男は、『帰りたい』と、ぐずる弟の口を塞ぎ、黙って涙をこぼしていたそうです。また、マスコミにマイクを向けられ、「福島に帰りたい?」と聞かれた時は、うつむいたまま、「聞かないで」と答えていました。」「私達が住んでいた街は、緑がとても美しいところでした。春には山菜が採れ、夏は岩魚が釣れ、秋にはキノコが実ります。仕事帰りの父親は、海岸でアイナメを釣り、晩の食卓を飾ります。決して贅沢ではなく、それが当たり前だった福島。その豊かさの全てが、放射能汚染によって奪われてしまったことを、今も悔しく思います。」
続いて,弁護団共同代表の中川弁護士が,被害者の置かれた現状,東京電力・国の不誠実性,本件訴訟で問う被告らの責任,裁判所に求められることについて述べました。
「・・・これまで司法は残念ながら,一部の下級審判断を除いて,これまでの原発,原子力政策を追認する判断を下してきました。この場でその判断の当否を問うものではありません。しかし,その結果発生したとも言うべき被害に対して,司法が,真摯に目を向けて被害回復に道筋をつけるか,再び,被害者の被害実態から目を背け,何重もの苦しみを与え続けるか,今こそ司法が問われています。」
その後,弁護士会館にて報告集会(兼記者会見)を行いました。会場は,満席で立ち見も出るほどでした。
報告集会では,弁護団の解説がなされた後,原告の鴨下さんなど原告さんの感想,各地の弁護団[大阪,神奈川,千葉,兵庫,浪江町ADR申立]や支援者からの激励の挨拶を頂きました。これまで公害,薬害をたたかってきた方も応援に駆けつけており,大変心強かったです。
さらに,支援団体である「福島原発被害東京訴訟サポーターズ」(ブログ)の結成の報告及び参加呼びかけが行われました。こうした国や東京電力という大きな「権力」に対する裁判は,単に法廷だけでなく,法定外の幅広い支援が不可欠です。原告・弁護団としても,大変心強く思います。
サポーターズ募集チラシは→福島原発被害東京訴訟サポーターズ・募集
次回の裁判は,9月11日午前10時,次々回の裁判は,11月27日午後1時10分
いずれも東京地方裁判所の103号法廷で行います。
裁判終了後は,報告集会を行います。
これから大変なたたかいが本格的に始まります。今後とも,ご支援のほどを宜しくお願いします。
裁判に訴えて闘っておられる方々に熱いエールを届けたい。今まで原発に無関心だった自分を恥じています。また、裁判所が政府の方針を追認する機関に成り下がったこともショックです。三権分立なんて絵空事でした。裁判所がその存在意義を示せるのかどうか。日本国憲法を活かして、国民を守る判断ができるのかどうか。注目したい。憲法は何のためにあるのか。法律は何のためにあるのか。裁判所は何のためにあるのか。みなさん方の裁判は、本意ではないかもしれませんが、それを明らかにすることになるでしょう。わたしもわたしができることを地域でやっていく所存です。